「経」と不変

 さいきんは「経たな〜」という感慨、それはまあ碎いて言えば年取ったな自分、ということなのであるけれど、そういう感慨が深い。いや、自分の年嵩からすれば、異様に深すぎる、ような気がする。そして、なぜだかこの感慨が実に心地よい。みなさんはどうですか?経てますか?「経る」というのはダウンタウンの名作コントでおなじみというか、僕の世代の精神へ絶大な痕跡を残したワンセンテンスだと思っている。

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 わたしはいわゆる松本信者ではないのでこのコントを論評するなどということは出来ないし、避けたいけれど、「経る」ことに鋭敏なのについては人後に落ちないような気がする。

 人間が時の経過を感ずるのは何をもってしているのでしょう?巡る季節の経過か、肉体の鈍麻か、膨張か。わたしが思うにそれは相対的な感覚というより、ある種人間精神に初期的に胚胎された感覚ではないかしら、とこのところは考える。たとえば、久々にあった友が太っていたり(お互い様なのですが)、結婚していたり、嬰児を抱いていたりすれば、それはもう視覚的にも分かりよく経たな、ということなのだけど、そういう即物的な(ひとが親になることを即物的とかいうのは反社会的なものいいかもしれないが事実あたらしい肉体がゼロ(?)から出てきて空間を占めているわけだから許諾いただきたい)こと以上に何かあるのではないか。

 だとすれば、自分が社会の中で擦れっ枯れて、揉まれ、圧され、所謂「経験」を積ませていただくなどしたことを発端として、精神内容に変節を来し、その変節の振れ幅をもって、あのときの精神とこのころの精神をx軸にマッピングしようとすることで、経ている感ユークリッド幾何学的に感得しているのだろうか。そういうこともあるでしょうね。でも、だ。でもなのだが、僕は「経(へ)」の感覚について思い馳せるとき、なんやらそういう物理的精神的変化が「経(へ)」を駆動しているようには何故か思えないところがある。

 むしろこれに対して、最近思うこととしては、不変という概念こそが経(へ)の培養器になっているのではないかと思ってしまっている。なぜなら、自己が不変の地点を自己内に持統しうるからこそ、身の回りの「経(へ)」について敏となれるのではないだろうか。動きようのない不変の何かが、全ての相対化を透過して存するからこそ「経(へ)」を感得するのではないだろうか。移動を重ねて、せわしなく過ごししている場合、むしろその時は「経(へ)」の感覚が鈍麻するということを経験したことがおありだろう。「楽しい時間は一瞬」という俗言はこのことを言っている。振り返る地点を獲得し、繁忙から脱して落ち着きを得た時にはじめて、ひとは「光陰矢のごとし」と思う。矢になっているその人自身は矢である自らの速力は感じないのだ。一般に、不変というのは経過という概念とは全き反対概念として把握されるものである。歴史は直線的に流れ行き、直線的に伸長して、ゼロから終わりへと流れ行く(と思われている)。しかしこれは主語の立て方があべこべなのだ。歴史は伸長しないし、歴史認識とは後天的に獲得ないしは叙述されるものだからだ。

 不変であるという感覚はどこに存するのであろう?おもうにそれは、肉体の不変を信じる人によっては毎朝起きるたびに昨日の自分と今日の自分が連続的に自己同一的に感得されるという得心であろうし、悠久と流れながらも信なるものを共有しうる共同体における共通の歴史認識であったりするだろう。ポストモダン以降、そういった「不変」は悪政体をも惹起した封建的土壌を用意した盲信として一度精算され、相対的な地平にひき据えられたわけではあるけれど、今巷に喧伝されるように、不変の拠って立つ礎としてそうした歴史性を持ち出してくる例は多い。けれども、果たしてそうしたある種擬制的に充てがわなければ存立し得ない不変とは、はたして本来的な意味においての不変なのであろうか?という議論もある。それこそポストモダンを経た後であるからこそ、宿命的に脆弱性を内に秘めた不変でしかないように思われる。

 または、「経(へ)」の感覚は、そうした歴史的基準点を設定したところから漏れでてしまうほどの、何がしか強固な不変、こういったものに担保され、また駆動しておるように思えてならないというということもある。それはいわゆる「ア・プリオリ」か?「語りえないものか」?もしくは神という概念なのか?もしかしたらそうかもしれない。そこで一つの仮説として、トポスという概念を提出してみたい。これは詩学における「定形」とった概念でもあるし、おそらく、歴史的集合性やコミュニティーが相互影響的に培養した一概念として理解されるべきで、既に述べたようなある種の犠牲という言い方に近い。ここでいうトポスとは大層な用語を用いたように看做されることもあろうかとおもいつつ、単に場所ということであるような気がする。場所は、それは大宇宙的に言えば不変の場所などありえない。(地球は自転・公転しているし、太陽系も銀河系の中を突き進んでいるし、銀河系もまたアンドロメダ大星雲と信じられない速度で接近しているし、宇宙もハッブルがいったように加速度的に膨張している)。しかしながら、先の移動をするときにこそ「経(へ)」を感じ得ない例を出すまでもなく、ここに我が身体が固着されているという感覚を覚えるときにこそ、周囲は迅速に流れ、我が身を置き去りにされたように思う。このことは、前に述べた擬制と同じように思われるかもしれないが、そうではないと思われる。場所とは、拠って立つところであると同時に、己が生きると同時に考え、行動し、ときには反駁し、ときには自己否定をする、そのフィールドである。物理的な意味においてと同時に、思考空間の起点でもある。この「場所」が個に固着するからこそ、周囲の「経(へ)」を鋭敏に感受することが出来る、基準点であろうと思われる。

 わたしはこれまで上板橋という様々な文化的文脈から置き去りにされた土地に長年居(=場所)を構えてきた。これまで、これほどまでにドラスティックな「経(へ)」をつきつけられたことは無かった。文化的文脈やコミュニティーから隔絶された場所にじっとりとへばりついていたこの8年間余りというもの、それなりに忙しく過ごしていた。だけれども、これまでの人生でこの8年間ほど「経(へ)」を感じたことは無かった。そして、その「経(へ)」は、わたしにとっては、とても心地の良いものだった。従来の保守議論においては、コミュニティーやア・プリオリ的なサムシングこそが現代的分裂症を防ぐとされてきた。いや、これは自信をもっていえるが、わたしは上板橋にコミュニティーも歴史も求めた覚えは一切ない。けれど、「経(へ)」を確かに心地よく感じて、むしろその「経(へ)」をテーマにこうやって愉快に文章を綴ったりしている。これは一体なんだろう?コミュニティーや信仰といったこととは全く違った何か、それは場所というこのある種即物的な概念によって「経(へ)」を観察し、味わいすることが与えられたんかもしれない。

 そしてこのたびわたしは住まう土地をうつした。たった数日間であるが、矢のごとくうごきまわるにつけ、刹那「経(へ)」の感覚を喪失している己に気付いた。それは移動にともなう喪失の感覚である以上に、動いているからこその相対時間の停止というべきかもしれない。

 「経(へ)」はわたしを心地よく眠りに誘うと同時に、蠱惑を惹起しもする。わたしは引越し後はや数日にして、ここに腰を落ち着けることに魅惑を感じている。なぜならふたたび深く「経(へ)」の感覚を味わいつくしたいからだ。なまぐさかもしれない、愚図かもしれないけれど、そう思っている。