白塗 3

 あくる年のその日は、冬の眠眼からお天道が気まぐれに起き抜けてきたように、陽の光が冬の靄を優しく包み込む穏やかな一日だった。男は寝具店の定休日である水曜日を利用し、日用品を買い求めに駅前のスーパーへ向かった。スーパーへ着くと、売り場を往来している人たちがどんなものを買っているかをぼんやりと眺める。水曜日になるとこの店でよく遭遇するあのおじいさんはいつもカゴいっぱいに惣菜を詰め込んでいる。幼い男の子を連れた女性は、その子にねだられる駄菓子の内容物がいかに体に悪い成分かといったことを独り言のようにつぶやきながら、いやいやする男の子を背中に、明日以降の食卓に必要なものをカゴに入れていく。夜学の同クラスで、件の運動会の際に選手宣誓を行った沼谷にバッタリと出くわす。男は軽く会釈を交わしながら、沼谷のカゴの中を一瞥すると、菓子パンと相当量のヤクルトドリンクがあった。授業中こっそりと机の中に隠したヤクルトをとりだしては飲んでいる姿を幾度となく目撃したことがあったけれど、なるほどこの店で補充をしていたのか。一通りの品物をカゴに入れながら、自らのカゴがどのような傾向を示しているのかを、それまで他の客たちのそれを見つめていたのと同じ仕方で、考えてみる。洗濯洗剤、トイレットペーパー、マヨネーズ、ブロッコリー、豚バラ肉。そういった品目を、水曜日の夕方のスーパーで買い求める自分と同じ年嵩の見知らぬ男性の生活がどんなものなのか、ぼんやりと思い描こうとしながら、レジへ向かう。

 平日のこの時間帯ということもあるのか、4つあるレジはどこも混雑している。並んでいる客たちのカゴの中の物量を比較しつつ、おそらく最も早く自分へ順番が回ってくるのは一番左の4番レジだろうとあたりを付ける。

 その時男は、町立中学校で同クラスだった鯉山さんが、スーパーの制服姿で4番レジ台の前に居るのに気づいた。鯉山さんと男は在学中もさして会話を交わす機会があったわけでなく、また、時折交わすことがあったとしても、化学や家庭科の時間で同グループになる回数がやや頻繁にあったときくらいだったし、それにそんな時の話題といえば、授業の内容についての他愛のないものだったし、ときおり化学室や家庭科室からA組の教室へ一緒に戻る時に昨晩のAMラジオ放送がどうだったとか、要するに変哲も他愛もないものであった。けれどある時一度だけ、駅前で待ち合わせをして、このあたりの商店街へ家庭科の調理実習の材料を連れ立って買い出しに行ったことがあったのを、男はこの時、思い出した。たしかあの時は、切り干し大根と味噌汁という題だった。そう言われてみれば、その時二人で訪れたのも、このスーパーだったのではないだろうか。

「マヨネーズ一点、ブロッコリー一点、豚バラ肉一点・・・」

バーコードリーダーをかざしながら、そうやってレジをくぐる商品を1個1個声に出す鯉山さん。

「牛乳一点、トイレットペーパー一点・・・」

「あの」

「合計で1560円に・・・」

「あの」

「はい?」

「鯉山さんですよね?」

「はあ」

「あの、第二中で一緒だったAです」

「あ・・・ああ!Aくん!」

「久々だよね」と男は支払いを財布から取り出し、レジ横のプラスチックのあの小さなプールのようになったところに乗せながら言った。

「うんうん。3年の時一緒のクラスだった・・・えっと、1600円のお預かりですので、40円のお返しです」男から受け取った会計をレジ本体に収めて、反対にレジかお釣りを拾い上げて男に渡す。

「あ、仕事中にごめん、いきなり」

「え、全然。でもごめん、お店も混んでいるのでまたあとで」

「あ、う、うん」

 男は買い求めたものをビニール袋に詰めながら、「またあとで」というフレーズが頭のなかで妙に反復されてくるのを感じていた。久々に会った鯉山さん。レジに立つ彼女。「またあとで」の「あと」が、もし「後日どこかで」という意味ではなく、例えば次の休憩時間とか、すぐあとのことだったとしたら。いや、そんなことは無いだろう。普通に考えれば、こういうシチュエーションの場合における「またあとで」というのは、社交辞令的な「いづれどこかで」という意味が一般的だろう。でもそうだとしたら、「またあとで」ではなく「またこんど」とか、「またいつか」という言葉の使い方をしないだろうか?だとしたら、「そろそろ体が空くからちょっとそこで待ってて」という意味にも解釈できないだろうか?豚バラ肉をビニール袋へ入れながら、はじめは半ば遊戯的に考えていたそんなことが、何やら切迫した問題に思われてきた。もしも「ちょっと待ってて」というつもりで鯉山さんが言ったのだとすれば、なにも言わずに店を辞去するのは、偶然とは言え久々に再開したという状況に鑑みて、あまりに礼を失する行為になりはしないだろうか。そんなことを逡巡するくらいなら、当の鯉山さんへさきほどの真意を尋ねれば良いものだが、4番レジには先程にもましてお客が列を作っているし、なによりも、「さっきの「またあとで」というのは、「すぐあとで」ってことかな?」などという質問をするというのは、すこし常識はずれというか、正直怪しげな印象すら与えかねない感もあり、妙にマゴマゴとしてきてしまうのだった。どうしようかしらと思いつつも、今日はこの後に特段急ぐべき用事も無いし、なんとなく鯉山さんの様子を伺いつつ、それとなく店内をもう一周してみることにする。調味料の売り場に並ぶ香辛料の成分表を眺めたり、季節外れのアイス売り場で、その色とりどりのパッケージデザインを閲したりと、妙な具合で生じてしまったこの無為な時間を過ごしていると、店名の入ったオレンジ色の前掛けを外しながら、鯉山さんが男に近づいてきて言った。

「お待たせしてごめんね」

「あっ」

「何?「あっ」って」

「いやその、なんでもないけど」

「本当に久々だねえ。せっかくだし、時間あればどっかお茶でもいく?」

「もういいの?仕事は?」

「うん、今日は早番だったから、もうこの時間で終わりだから」

「そっか、俺もこのあとは別に予定無いし、せっかくだし、そうしようか」

「オッケー。じゃ、事務室に言ったら荷物持ってすぐに戻ってくるから。お店の入り口でちょっと待っててもらっていい?」

「うん、了解」

 

 鯉山さんは、中学卒業後は、隣町の商業高校に進み、そこで簿記資格を取得するべく学んでいるのだという。出来れば大学にも進学して、都会に一人暮らしもしてみたい。家族は4人家族で、母と父と、大学生の兄がひとり。スーパーでバイトしているのは自らの小遣いのため。趣味は映画を観ること。Aくんは映画みる?そうか、スクリーンっていいよお、グオーって引き込まれちゃう。友達は多くも少なくもなく。商業高校だから女子率高いよ。女子からけっこうモテる方で、こないだなんて部活の後輩から、あ、部活はソフトボールね、なんかラブレターみたいなのをもらっちゃった。ベタじゃない?最近は親と進路のことですこしブツかってて。昨日もケンカをしてしまった。簿記の資格取ったら、地元の会社で経理で雇ってくれるところもあるだろう、何も一人暮らしにあこがれて大学に進学する必要もないではないか、と訊けば、いや、今の時代、新聞やテレビでもやっている通り、女性の社会進出は大きな流れになってきているし、オフィスレディとしてバリバリ働くのにも憧れるなあ。お嫁さんになりたいとかなりたくないとかはよくわからない。

 何故久々に会った自分にそこまで饒舌に語るのだろうかということを不思議に思いながら、男は彼女のよく動く口を見ていた。中学校のときより一層短く整えられ、快活そうな印象を更に増している。短髪。話しながらもよく動き回る両目は、ときおり話の要点に差し掛かったと同時に男のことをキリッと見つめる。大きくも小さくもないその目には、本人が曰くの通り「コンタクトレンズに挑戦しているんだけど、目にあわなくていつもゴロゴロしている」からなのか、通常よりも多めの水分が湛えられている。細く尖った顎の先に少し赤みのかかったニキビがあって、時折、右手の人差し指でそれに触れてみたりしている。そしてその上には、やや薄めながらほのかな肉感を感じさせる、瑞々しい唇。

「ベラベラごめんね。なんか最近全然中学の時の知り合いとか会えないからサー、色々喋っちゃった」

「全然」

「Aくんはさ、今どこの高校に行ってるの?」

「おれは実は夜に定時制にいっているんだ。前からお父さんの具合が悪いから、お店を手伝うわなくちゃだったりして」

「へーそうだったんだね。それじゃ大変だね」

「まあでも慣れちゃえばね。クラスには変なやつらもいっぱいいて面白いよ」

「へーそうなんだあ。なんか大人な感じだね」

「いやそういうわけじゃないけど」

彼女は、溶けてすっかり小さくなってしまったオレンジジュースの氷をストローでコロコロといじり、それを見つめる。

「あ、そういえば前にパートのおばさんから聞いたんだけど、去年夜学の運動会の時、面白いことあったんだってね」

「なに?」

「なんか、ハードル走のときさ、狂犬病のノラ犬がグランドへ入ってきて、みんな逃げ回ってレースめちゃくちゃにした挙句、先頭を走っていた選手と大衝突して、その人もんどり打って大怪我しちゃったらしいよ。アハハハハ。でも「アハハ」じゃないよね、こわいよね。それ、Aくんも見てた?」

「あ…見てたっていうか、それ、俺だね。その先頭走っていたの」

「えー!ホントに?怪我とかもう大丈夫なの?噛まれなかったの?その犬に」

「怪我もしてないし、噛まれてもいないよ」

「すごい!A君、不死身じゃん」

「だからそうじゃないんだけど」

 スキャンダルの当事者の思いかけない登場にすっかり爛々と目を輝かせている鯉山さんに、男は苦笑せざるを得なかったけれど、なぜだか巷であの日のことがそんな大げさな話になっているということへの戸惑いもありつつも、むしろ不思議と自尊心のようなものをくすぐられるような思いもし、悪い気はしない。

 「しかし、あの、Aくんがねー。中学の時は・・・変な言い方だけど、地味系だとおもっていたのに。すごいじゃん」

「いやあ、まあ…あれは別に事故みたいなものだから」

「ねえ、逆にさ、私のことはどう思ってた?中学校の時」と、鯉山さんはコップの底に残った氷の溶けた水を、ストローを使わずコップから直接サッと飲み干して、言った。男はその問いかけに答えるのに少し時間を要しつつも、言った。

「うーん、どうって、まあ、元気な子だなって」

「でた。「元気」かあ。大人っぽいな、とかそういうのは思ってなかった?」

思えば普段はこうして同年代の女子と話をする事自体も稀な男は、どう答えていいか分からず、彼女から目をそらして、喫茶店の奥の壁かかっている、恐らく素人仕事であろう変哲もない田園の風景が描かれた水彩画を見やった。すると鯉山さんは少し意地の悪そうなけれど、相変わらず水分をたっぷり湛えた目をして、言った。

「わたし、昔から、同世代の男子って話あわなくてさ。A君はちょっと落ち着いている感じだから、わかるでしょ」

「落ち着いているのかな、自分では良くわからないけれども」

「そうだよ、落ち着いているよ。私の彼氏、S大の4年生なんだけど、彼と比べてもなんかそんな変わんない気がするっていうか」

突然の「彼氏」という単語の登場にすこし戸惑いながら、男はただ「そっか」と言った。