クリーンナップする

 例えばウォーホルのファクトリーにおいても、日毎夜毎に参ずる、自称・他称・あるいは誰彼が「称する」などといった前置を必要としないほどにそこへ必然として参じてしまっていた「クリエイター」連中が、参じていることそれだけで痕跡を残すように、その場を汚していくことがあったはずなのだが、それを、綺麗にクリーンナップし、掃除し、汚された家具なりソファーを原状復帰していたりした人がいたのだろう。そういう人たちは、いわゆるところのカルチャーを回顧的に眺めた場合、どのように捉えられているのかしら。芥は溜まり、蓄積となり、薄汚れた空気と埃を吸い込み続けることを自らのアイデンティティと誤解したヒップスター達によって、それらの堆積は神話となってきた。が、その神話を神話として語り部に対して語るにたるものとして、無自覚であったにせよ(というか後述するようにまさにそうなのだが)パッケージしてきたのは、他でもない、そうした「清掃人」たちではなかったのだろうか。物事をエディットし、エディットしたことによってのみ自己満足に陥る自意識肥大傾向の者共とは、全く隔絶される、ただの清掃人。ただの清掃人が歴史を歴史として俯瞰可能に変換してきたのではないか。だれにも知られず自らも知らず。

 彼ら清掃人は、みずからが清掃人であることすらにも自覚的では無かった。表象面のみを取り沙汰せば彼らはもしかしたら「くだらない」取り巻きであったかもしれないし、「くだらない」単なる鑑賞者であり、そこにいただけの人々であったかも知れない。もちろんあなた方の記憶にも記憶されず、しかも彼ら自身の記憶にも記憶されないような。セレブリティは、他のセレブリティや只かしましいだけの情報発信者にたいして、いつもお馴染みの懐柔もしくは反抗的態度をとることでするように、彼らを自身のセンセーショナルな自己意識の培養器とするつもりは毛頭から無く、だからこそ、彼らのことを貶しも、ましてや敬いもしない。というか、それは背徳や名声に内包された単なるシステムでしかないし、そのシステムを主体として駆動させているのは誰といえば、あくまで自らや自らが射程できる範囲の出来事でありパワーであって、システム総体を駆動せずとも構成するのが実のところ彼ら清掃人だということに対して、気付きを得ることはない。見ないもの・認知し得ない存在は前提的に存在しえないという昔ながらのゼノン的唯我論に絡め捕られているように…?

 彼ら清掃人をサイレント・マジョリティなどということばに回収しないで欲しい。彼らは個々としてはサイレントでもないし、マジョリティでもないだろう。だからといってラウドでも、マイノリティでもない。そういった実践的・統計的な分析構造からこぼれ落ちてしまう、個々の人々。多数の個々。しゃべり、生き、食べ、性交もしている、そういった個々が参集し多数いるというだけの事実。事実というのは案外にそういう個的な状況の集合体であったりするのであろうし、ただそれらを秤にかけやすい事象として把握したいがための欲求が先走ることによって仮定されている「集団」という幻想が前景化してしまって、「事実」というもの意味が歪んでしまっているのだ。これは上位的に仮定される所謂「共同幻想」ではない。あまりにもその性質を異にする個々の幻想が数量的にも想像的にも多岐に及ぶことで実際的な観測不可能性を負っているために、それにめげた観測者達が、断裁的に物語るいわゆる集団についての幻想なのだ。清掃人は清掃人として類型を持たない。だが、個としての身体的外郭は、明らかに、もっている。「コギト・エルゴ・スム」などを持ちださずとも、彼らは生活感覚を先天的・後天的に身にまとい、そして生きる。実存は本質に先行する?否、断じて、先行しないのだ。実存への気付きこそが、実存性への尊大な態度の現れなのではないか。

 個的な作家性、またはその発露、またはそれを動機づける欲求、それらを表出させるのは、創作者個人であるとともに、実のところ、こうしたクリーンナップを糧とする、単なる生活人であることを決して忘れてはないらない。このことは創作者へ向けて言っているのではない。都市に生きるとは、だれしもが清掃人にならないわけにはいかないからだ。シンプルに言えば、自らが汚しうる自らの生活圏を自らが再び再生させなくてはならないのだから。生活圏とは、ヘクタールで換算できるような物理的面積でもあるだろうし、もっといえばトポス的土地であり、そこに堆積される汚れは、堆積されるままではカオスを招来する(アナーキズムなんていう牧歌的なものではない。それは徹底的なカオスとなるだろう)。ニヒリスティックにその堆積をやり過ごすことは、そうした無関心を標榜するだけは容易い。しかし、何時かはすすがれ除かれ、反芻されなくてはならない。なぜなら、堆積(=剪定の無い主観的事実の蓄積)だけで歴史が造られるのであれば、それは広大な時間空間と次元的無方向性を却って増長し、単なる記録と記述に堕してしまうだろうから。堆積こそが伝統であり文化であると考える向きもあるかもしれないが、それは本来的な意味での伝統や文化ではないし、そのような堆積のみの世界に仮に生まれ落ちてこよう我々は、あたかも無限に奔放な空間に放り投げられた永遠に乱反射運動を続けるスーパーボールがごとき存在でしか無くなってしまうのだ。伝統主義者も勿論、もしくはなおのこと革新主義者達こそが言うだろう、個的に、ある種デカルト座標に置換できるような形で「偉大なる」精神が蓄積されゆくこと、それこそが歴史であり、人類の前進であると。しかしながら、残念ながらそうではないのだ。誰彼に記憶されることもないけれど、堆積された物・事を粛々と、自ら達によって、時々のエートスや生活尺度に合わせて、クリーンナップし、自らのためだけに再定義する、そういった多数の「個」こそが、実のところ歴史のダイナミズムを担っているのだ。彼らはそのダイナミズムを自ら用いることで自らの拠るところにしないし、ましてや、自らの文化的なアイデアを説明するためにもこれみよがしに援用もしない(そうした精神活動は無益な自己撞着であると感づいている)。ただ、幸せのために生きているだけだし、同時にそこに多少の苦悩があることも経験的に知っているだろう。知っているからこそ、そういうダイナミズムを喧伝もしないし、実存的不安を避けることも出来るのかもしれない。常々思うことだが、私はそううものになりたい。そして、何かを創りだすことにも精を出すことも忘れたくない。常に「お出かけですか〜?」と道を掃除し、世に対しながら、ブリコラージュし、何かを創りだしていられるようにしたいのだ。