梢を離れて

 今から2年前。29歳になったばかりの頃。街の空気もいよいよ肌寒さを孕んでいくその日、次にひとりで住むことになる街はどんな街なのだろうという茫漠とした思いを抱きながら、僕はバスに乗っていた。この街にはそれなりに長く住んでいたはずなのに、慌ただしさにかまけてゆっくりと散歩することもままならなかった自分たちの家の周辺を、今度の週末に気ままに巡ってみない?と彼女が提案したのだった。物憂げな陽光の差すバスの車内で、僕たちはほとんど話もせず、彼女は左側の窓に流れる風景を眺め、僕は反対側の窓に流れる風景を眺めていた。

「なんにもしない日なんて久々だね」と、彼女の関心を引き寄せるように、その先に指し示す何かがあるでもないのに、指先を右側の窓から見える景色に向けて、僕は言った。

「なんにもしないわけじゃないよ。お寺にお参りしたり、お土産をみたり」と、視線をバスの行く先へ移しながら彼女が言った。

「それに、こうやって一緒にバスに乗ってどこかへ行くのなんてどれくらいぶりだろう」と僕。彼女はそれには答えずに、路線図にある次のバス停の名前を、小さな声で独り言のように繰り返している。家族連れ、恋人たち、友人たち、沢山の人たちが名も知らなかったバス停から停車のたびに次々と乗り込んでくる中、僕たちはもう、そのどの間柄にも属していないということとを、確認しあっているようだった。

 窓から見える道沿いに立ち並んだマンションや家屋が、徐々に青くて広い空にとって代わられるようになってしばらくすると、その寺の名称をただその通りに冠した名前のバス停に着いた。「ヒョイッ」という掛け声とともに、実際にヒョイッと飛び降りた僕を見ながら、「子供だなー。Tは。お寺なんてすぐ飽きちゃうなー、きっと」と、軽い笑みを浮かべて彼女も降り立つ。そしてとたんに早足になって僕を追い越していく。

「どこ行こうか」

「ほら、やっぱりYもなんにも決めてないじゃん」

「なんにも決めてないけど、なにかはするの」

 彼女に追いすがりながら、しばらく行くと植物公園の看板が出ているのを見つけた。

「ねえ、ここに行ってみよう」

「ほら、することなんてすぐに見つかるじゃん」

 今や横一列に並んだ格好となった僕たちは、その公園の中へ入っていった。枝同士が覆い合い、お互いが見つめ合うように立ち並ぶ木々の間を越えると、大きな池が見えてくる。その傍らのベンチに、カーキ色のチョッキ姿の初老の男性が浅く座り、小さなスケッチブックへ、彼の目に写っているその秋の景色を、エンピツで描き込んでいた。僕は男性の少し後ろに立ち止まり、頭のなかで、そのスケッチへ彩色してみた。木々の色は淡く、池の色は濃く、花の色は・・・そう、出来るだけ明るく、ヴィヴィッドに。そんな僕の気配を察してか、カーキ色のチョッキが少しこちらに翻った。すると彼は僕に向けて腕を伸ばし、エンピツを「1」の字に立てて、片目で僕を見つめるのだった。それに気づいた彼女も、その簡易的な「測量」の仲間に入ろうと僕の傍らに立って、少し微笑んだ。

 

 公園を出ると、僕たちはその寺の境内へと続く小径へ入った。僕たちが順路を間違えてしまったのか、僕たちの他には境内へと往く人はおらず、沢山の人達が次々に向こうからやってきて、傍らを通り過ぎる。すれ違うには少々難儀するほどの道幅のその小径に沿って、いろいろな民芸品や、この地に由来のあるらしい著名な妖怪マンガのグッズが所狭しと並べられたお土産屋が立ち並ぶ。中に、焼きまんじゅうを売っているお店を見つけた彼女が、僕に訊いた。「Tも食べる?」

「おれはいいや。だってここは蕎麦が有名なんでしょ?お腹を空かせておきたいもん」

「じゃあ小さいのを一個だけ」

 しょうゆの焼けた香りのする串付きの焼きまんじゅうを右手に持った彼女は、僕の待っている道向にたどり着くまでもなく、最初のひと噛みをした。人並みをかき分け僕の前へ立った彼女は、「おいしいね」と、まるで僕もそれを一緒に食べたかのように、言った。

 それから僕たちは、逆流する人の波をかき分けし、境内の前へと出た。そこは、確かに話に聞いた通り明媚にして流麗な建屋の群と、それが臨むにはやや朴訥に過ぎるような、さっぱりした庭地の広がる空間だった。僕と彼女は、それらを細い目で眺めつつも、その足は、これまで二人でお寺を訪ねたときにしてきたのと同様、颯爽とおみくじ売り場を目指すのだった。

 とくにそれの為の売り子もいないおみくじ売り場で、子供っぽい焦燥とともに、各々セルフサービスで引き当てた紙折りを持って、僕らは微笑みあった。そのおみくじの結果をここで詳細に開陳するには僕の記憶力は薄弱なようだけど、二人で笑いあったのは覚えているから、きっと、二人ともが悪くないくじを引きあてたのだろうと思う。境内の隅にある、緑の色濃い松の木の枝に紙折をくくりつけようとしたとき、僕はうまく結び目を作ることが出来ずに少し手こずったりした。

 それからしばらくして、先程の焼きまんじゅうもやり過ごした僕は、境内が褐色に染まり始めた頃には、心地よい空腹を感じ、言った。「ねえ、いよいよお蕎麦かな」

「私もさっきのおまんじゅう、ほぼ消化完了」

 生半可な予習でこの辺りの蕎麦情報を仕入れていた僕が、評判の高いお店の場所を調べようとすると、彼女が、「私が決めていい?こういう時はファーストインプレッション」と言った。

 

 小さな水車など民芸風の調度品が入り口に据えられた小さめな蕎麦屋を彼女は見初め、僕たちは暖簾をくぐる。家の店を手伝っているのだろう、高校生くらいの若い男の子が注文を取りに来る。

「えっと。私は、普通のざるそば」

「じゃ、おれもそれで。あと瓶ビールとグラス二つ」

 しばらくして、蕎麦がやってきた。漆の盆に、竹色の丸い笊。そしその上に、普段思う「蕎麦色」よりもやや黒みを含んだ蕎麦。ほの薄い青磁色の地に藍の笹の葉模様が全体に描かれた猪口の中には、出汁の豊穣とかえしの清爽が薫るつゆ。横並びに座った僕たちは目を見合わせて、せーのっというように、啜り込んだ。鼻腔いっぱいに香りが広がったあと、微細に練り込まれた蕎麦殻の欠片が、喉をくすぐる。

「ああ、美味しいね」僕たち二人のどちらが初めにそういっただろう?恐らく、二人が同時にそう言ったのかもしれない。「うん、美味しい」「うん」「よかったね」「うん、よかった」「ありがとう」「急になんの「ありがとう」?」「美味しいことに」「そっか」

 店から出ると、外はすっかり日も落ちて、つい先程まではあんなに賑やかだった通りからもすっかり人が消えている。昼間降り立ったバス停へ戻ると、運良くすぐにバスがやってきた。往きのときとは違い、僕たちを含めても片手で数えられる乗客数しかいない車内で、僕たちはベンチ席に並んで座った。スマートフォンを眺めながら今日の復習をしている彼女はとても楽しそうだった。

「ねえ、あの近くに銭湯もあったんだって。今度来る時は、まず銭湯にいって、お蕎麦を食べて、そんでまたお寺にお参りして、とかもいいなあ」

 僕たちは、今度またここを二人で訪れることはきっと無いだろうということを知りながら、今度またここを二人で訪れるときのことを、細に入り話し合った。

 

 マンションへ帰宅し、彼女が洗面台に立ったのに合わせて、僕は一服しようとタバコの入っているズボンのポケットをまさぐった。すると、境内へ至る小径でふと手にとったパンフレットもそこへ入っているのに気づいた。その一節に、こう書いてあった。

『ここ、深大寺の歴史は約1300年前に遡ります。深紗大王を祀る当寺は、開祖・満巧上人の出生の逸話により、縁結びのご利益でも知られ、幸せを願う多くの恋人たちが訪れる地となっており・・・・・・・』

 僕はベランダに立ち、それまで安住していたそれぞれの梢から色づいた葉をさらっていく風を感じながら、タバコをポケットにしまい、その代わりに、ありきたりなやり方だと思ったけれど、ふっと白い息を吐いてみた。あの美味しかった蕎麦の味と、ありきたりだと思ったけれど、そのときの彼女の嬉しそうな顔を、きっと忘れないのだろう、と思ったら、少し涙がこぼれた。