信じるということ

 一体全体、「信じる」というのはどういったことなのだろう。日常的な語彙としては、「信じる」とは、自分以外の他者がなにがしかの行動や言動を行う際に、それを観察・感受する側である人称が、彼がおこなったことについて、自らが敷衍する規範に乗っ取り、またはその規範を逸脱することなく、ことが行われることを期待する、その期待値が50%以上のことであるように思われる。しかしながら、「信じる」という特殊な精神活動が呼び起こされる時、果たしてそれを信じる側にいる人称は、信ずべき、事を行う主体としての二人称について、そのように単純な信頼関係とも呼ぶような関係性を持っているものなのだろうか。

 その二人称に対して、我々一人称が期待するような行動規範を求める時、われわれはその二人称に自己を内在化する。自己の倫理をその二人称に内在化し、「私だったらっそうする」という、極めて直裁的な規範を適用しようとする。「俺だったらこうするのに」といった、一人称を反射するような、直線的な関係に依らずとも、「一般的にはこうするはずなのに」という内在化された規範を基点として、彼(一人称)は彼女(二人称)を評価しもするし、断罪しもする。信頼と不信という二項対立を牧歌的に惹起する一般的な社会生活においては、そのような一方的力学がもっとも単純に顕在する場でもあると同時に、しかしながら非一般的(と今は言おう)な個別的関係においては、その力学系がいとも簡単に崩壊するとい事実について、自明でない者はいないだろう。

 であればその「非一般的個別的関係」とは一体何なのか。それはご承知の通り、恋愛の地平においてであろう。この論に立ち入る前の前提として「一般的関係」についていうなら、プレモダンまでに担保的に論じられてきた「善/悪」という対立的図式に言及せずにはおれない。絶対的な倫理規範としての神が、近代的な、「契約」という弁証の結果としての技術論的折衷を導き出したという点、もしくは「神」の概念が一個絶対的な規範として存在するその自明性を逆利用する形で、宗教的観念を倫理一般まで敷衍してきたというその史実、それらを参照する際、我々は「信じる」という行為の恣意性や歴史性を再認識せざるを得ない。そしてそこで暴かれた相対性こそが、現代のポストモダン状況における「自由」という思想の源泉であるとするならば、「信じる」というその精神活動やそれを培養した時代も、歴史的文脈の末端に位置し、相対化された観念として論じられるのも無理はない話でもある。しかし一方で、「反自由」の側から提出された様々な暴虐的事例(全体主義でも、アウシュビッツでも、例証に事欠かない)は、その相対的な自由の、「相対的」な部分こそを、ポストモダンの病として断罪すべきであるという歴史的事象を絶え間なく提供してきたことも、事実として動かし難い記名性を有している。そのことはあまりに痛く、苦しく、人類史に残る汚名として、早急にそそがれなければならないし、私も含めた誰しもが、そう思っている。

 しかしながら、この時点で、新たな、しかもまったく予期していなかったと同時に、どこかで少し予期していながらも、その醜さ故に誰もが論じるのを避け、しかも恥じてきた問題が生じてくる。それは、「信じる」ということへの、越権的な不信である。

 僕は、私は、今個々に生きるにおいて、実存的な不安にさらされているという、モダン以降のあまりに自明な言論状況において、それは、それを自ら逆利用するような形で現れる。ポストモダンが、林立する価値を全て肯定するようにして、とても皮肉なことに、同じような手つきでで、あの「愛」という価値すら、越権的に否定する。しかも無自覚に。

 どのように言論・思想が激化、セクト化、もしくは脱意味化しようとも、我々は、哀しいことに、この物質的世界に生き、しかも実存主義的な表現をあえて用いるなら、生かされている。生かされ、極限的なニヒリズムを抱えながら、生きていく中において、能動的な自殺は容易い。しかし自ら命を経つ時、命を絶つというその行為自体が、この悲観と実存的世界を肯定してしまうことになる。だからこそ我々は永遠にもがくべき主体として、その生命を全うするということに一応の目的を付与することを宿命付けられている。これはなにも悲観的見立てではなく、自明に引き出される結論のようなものだ。だからこそ、我々は生きなくてはならない。誰のためでもない、それは個のためであると同時に、あえて言うなれば逆説的に全体のためでもある。

 その時、そのときこそ、我々が生きるということの、もっともエッジーな、そしてもっとも辛苦にまみれた地平が見開いていくことになる。「あなたを信じることは難しい、だけれども、何かを信じていなかければ」。これまで人々が歴史を重ねてきた只中において、「信じる」ということが、この地平において、はじめて語られるべきフェイズを迎えているのだと思う。それは人によっては、またしても歴史が可逆的に巻き戻されてしまった現象の顕現としての「宗教」かもしれない。だけれども、はっきり言うなら、そういう人たちは幸せだ(とされている)。辛苦にまみれたことに、多くの人達はそこまで楽観的になることを許されていない。何故なら、信じることを既に封じられてしまったことを、既に知ってしまったからなのだ。それにおいてもなお、何かを信じていなければ、人は生きていくことは難しい。例えば、友人を、師を、そして、家族を。それが消極的な精神活動だとしても、実存の果に垣間見える、最後の、私達の指先がかろうじて触ることの出来る、凸面なのだ。

 ここまで論じてしまえば、愛を裏切り、それを裏切るつもりもないのに裏切ってしまう、あの一群の人達に対するレクイエムとしてはそれなりに意味を持ったエッセイになってしまている。しかしながら、今わたしは、手を緩めることをしたくない。この文章を省みるならば、読者が、極めて保守的な紐帯主義ともいうべきものを嗅ぎ取ってしまうことは容易であろう。何時の時代であってもすべての新たな世代は「我々がもっとも無気力だ」と思ってきた。様々な価値に晒され、上昇と下降と沈滞と、その縦軸的な場所取り(と場所取りの放棄)を自らの懊悩の培養基としてきた。それは既に、彼が薄々と感づいているように、議論としての有効性を全く失っている。その相対化の波間に自らを埋没させ、某かでも視点を確保しようとし、倫理観の浄化に身を任せるとしても、それは知らぬ間に自らが望んだものであったということを、そろそろ痛さとともに知るべきだ。彼が知るのは、愛の不毛であり、倫理の欠如だ。

 あなたは、彼は、僕は、愛を知るために最大限の努力が求められている。そのことが何なのか、果たしてそこにたどり着くことができるのか、そういう予想される途方もない徒労を、言い訳として用いるべきでない。何故なら、その言い訳によって、あなたが知らぬ間に、若しくは知りながら、あなたが一時期でも愛した誰かが、死に瀕するほどに傷つき、しかもその上に、その傷を癒やすために連鎖的に誰かを、若しくはもっと不幸なことにはあなたをまた傷つけてしまうのかもしれないのだから。

 だからこそ、我々は、あなたは、今だからこそ「信じる」という行為に身を投げ出してみるべきなのだ。いや、それはもっと言えば、他者が自らを「信じさせる」という行為へダイブするほどに、自らと彼の関係を陶冶するその勇気を持つべきなのだ。

 

 あなたは不信心の人だ。

 信じるという訓練は、もしかしたら、いまこのときにおいては、何の意味も持たない。あなたがあなたを信じてくれるかもしれない人と出会うことのできた(もう出会っていると思うよ)その時、初めて、信じるということを信じ始めていいのかもしれない。そのことに手間取ってもしかし、あなたは信じることをやめてはいけない。信じるということに、どこか怖さを抱えているときこそ、あなたは今ここに生きていることの証左を感じることが出来るのかもしれない。けれど、彼を信じることによって、あなたはそのとき、その瞬間に、おそらく彼もあなたを信じていることに気付き、救われるだろう。かつて信じようとしなかった自分も、そのときにはじめて浄化され、祝福されるだろう。信じられているということを、そのときに信じられるだろう。

 僕はあなたを信じようとして、信じることが出来ると思ったけど、哀しいことに、それをすることが出来なかった。だからこそ、あなたには、かならずそれを成し遂げて欲しい。