絶対零度の社会性

  物質が、その細分単位である分子が、運動をやめて沈黙するときに、温度は絶対零度となる。これ以上低くなりようがない極点として、物質的存在はすべて動きを停止し、停止したゆえの結果として、それ以上には下回ることのない結束点として、超低温をわれわれ観察者に提示する。反対に、高温状態の極点は無限であるとされている。超高温とはすなわち、宇宙開闢のその瞬間より以前、すべての分子が極限的にミクロな一点に収斂していた状況と意味を同じくする。低温には極限があるのに、しかし高温には無限があてがわれているということに、高校理科の知識しかもたないそのときから、何か畏怖と違和を覚えてきた。マイナスへの運動は、最終的には無動としての死を呼ぶ。

 さて、物質の世界ではそのような見取りがすでに確立されている一方、社会的状況論においてはどのようになっているのだろうか。もっと言えば、人文学一般をモダン以降支えてきた、個人に帰属すべき「感情」というものについて議論を敷衍する場合に当たっては、いかなる見取りが可能なのだろうか。一般に、社会の力学系は、社会学的論理・語彙によって記述されるように、ある一定のコミュニティなり、成員の集合における力学関係を擬似自然科学的に記述されることにより、その信頼性を担保しようとする。イエス/ノーという二者択一の二項対立的議論であったり、またはもっと卑近な例で言えば、例えば多数決という、技術論的帰結というべきさまざまな合理主義的理解の帰結的方法論が、跋扈して久しいこのモダン以降の社会にあって、実はぐろぐろと蠢く様々な個人の指向性がそれらに(非暴力的な)回収を見せたということは、既に近代社会にあっては一定の手法的成功を収めている。しかしながら、そういった「民主的」プロセスからどうしてもこぼれ落ちてしまう(本来は民主主義が保証するはずであった)個人に帰結する他はないような極めて個的な出来事に伴う感情の軋轢や跋扈は、そういった民主的プロセスの外縁に置かれることになる。なぜなら、個的状況を波形的に処理しようとする時に、その波形そのものを二次元的に眺め、また技術論的に処理することこそが民主的プロセスそのものを成立させる条件そのものでもあるからだ。そこには、あまりに自明なことであるが、個々の主張や考えにコンプレッサーを加え、その上で観察しうるサインのみを政治的サインとしてすくい取るという、合理化への欲望が前景化された、技術論上の効率主義が存在するからにほかならない。その結論をあなたが導き出すまでに思考された過程よりも、その結果のみを勘案するという、いつでも我々がその恐怖にさらされている、イデオロギーがでんと居座っている。

 そういったコンプレッサー的民主主義=モダン以降の民主主義において、我々は(当然にそのシステムを駆動する側にいる人間も含むわけだが)、違和を表明するその機会を奪われるという経験とともに、違和を感じる心すらも収奪されている。こんな議論はすでに、例えばジョージ・オーウェルの『1984』における個的言語の収奪によるイデオロギー管理を例に出すまでもなく、あまりに頻繁に歴史に登場する悲哀ではあるのだけれど、現代ではさらに、ここへあのインターネットにより高度化された同調への圧力も加わるのだから、なかなかにタフな状況と言える。また、その当然の逆説としては、そうしたコンプレッサー的民主的から逃げ出るように、違和を感じるだけではなくて、なにがしかの政治的な表明すらも(SNSなどを通して)容易い状況にあることも確かであると思う。しかしながら、今日われわれが対峙している困難は、そのような「抑圧されるものもいるなら、どこかにきっと反駁すものもいる」式の、古典的なレジスタンス運動止揚のような次元を超え出て、既にそうした意識すらも、絶対零度的な終末感に苛まれ、運動を止めてしまうような次元に立ち入ってしまっているのでは無いかという疑問をいだいてしまう。

 人にとってはそれは、愛の挫折であるだろうし、全ての存在が表現主体になりうるということから反射的に引き起こされる、表現という行為の価値の失墜でもあるかもしれないし、それに伴う批評言語の滅失であるかもしれない。しかしそれがどのような原因によるものだとしても、自然科学において確固として実証されている、絶対零度状況のおける無運動的沈滞とリンケージを結びうるほどに、強烈な虚無を招来することであるとは、例えば数十年前には、だれが予想し得ただろうか。いま、文化相対主義こそが、停滞というには生易しいかもしれない、運動の停止(それは大きな見取り図を用いれば、全体主義の挫折ならびにイデオロギー座礁新自由主義たグローバリゼーションといった「オルタナティブ」な潮流の失敗、更にいえばあの「マルティチュード」概念への懐疑のなども含まれる)という状況をむしろ加速したのではないだろうかという反省に晒され始めているとき、この絶対零度を融かす特効薬が存在しうるのだろうか、というほどに、我々は思想的疲労に晒されている。自然科学が観察し得た、絶対零度状況におけるその絶対性。すべてのものが動きを止めてしまうという、その絶対性が、まさかこれほどまでに人文的世界にも容易く通用しているのかもしれないということへの恐怖は、それこそがまさに人文学手法である「言葉」では表現が難しいほどだ。

 では、そうした停止・固着状況を融解する熱源は一体何なのか。それさえわかれば、停滞を一気に溶かしてしまうことが出来るのかといったら、決してそうではないとおもうけれども、すくなくとも融雪剤くらいの漸次的な効果を発揮しうるものとして、いまは融和剤を探さなくてはならない。ひとつには、それは「反モダン」としての社会主義的なギルド志向であるかもしれないし、または、文化相対主義の飽和点としてのアマチュアリズムへの反省が促す専門主義の復権かもしれない。またはもっと拙速な論者からすれば、全体主義への回帰かもしれないし、ときにはまたアナーキズムの実践であるかもしれない。しかしながら、今我々の社会は、絶対零度として、それらの揺籃をも無化させるほど、ポストポストモダンとして(過度の流動の結果として)硬直しているかもしれないということへの視点も失ってはならないだろう…。

 さてここに至って、あえて結論めいたことを書き綴るならば、このような状況において、その絶対零度の融解をなしうるのは、ここ最近でも言われてきたようなコミュニティー主義ではないのかもしれないという臆測が頭をよぎってやまないのだ。コミュニティーとは、主体的存在が3名以上寄り集まってそこに形成される、関係性の総体のことであるが、この最低限のコミュニティーですら、今文化相対主義の尺度においては、なにがしかの絶対的規範を広く生成することは本質的には困難である。その困難を軟化させるために、国際的な契約や条例という概念が発達してきたのであろうことに鑑みれば、ひとたびそこに不和が起こるならかえって逆説的に引き続いて引き起こされるのは、ドラスティックな戦争状態か、またはその反射として各々が自己に沈潜しコミュニケーションを放棄する閉鎖主義かの択一となってしまう。これはそのまま社会運営の困難とジレンマを表す寓話でもある。そして、こうした3人以上の主体が登場する場合の、コミュニティー重視的価値を敷衍することで、かえってその3人以下の、2人の当事者間の関係性、ないしは1人それ自身の個人主義的最小世界をも崩壊させうるというのは、我々がすでに学校や職場などで日常的に経験しているような卑近な悲劇でもある。では、こうした状況で、コミュニタリアンをも満足させ、かつ絶対零度的な無動の個人主義に陥ることを回避するためには一体何が必要なのだろうか。おそらくこの地平においては、これまで例証を挙げた3人以上のコミュニティーを保証し温存しようとする爾来の社会意識を越えたものが必要なのではないだろうかと考える。単純な議論を展開するなら、個人が社会における一個のアトラクタとしての苦悩に価値を還元しようとするような、要は結局のこと、ここに存在し、ここに思考する主体としての起源に回帰し、個的に生を全うしようとする実存主義を展開するほかないように思われるのだが、既にそういった哲学の非現実性(どのようにしても、結局現象面おいては人は本質的な意味での実存的生を選択できるほど強靭に孤独に飼いならされてもいないし、アカデミックにそれを信望しつづけるほど酔狂でもない)に鑑みるならば、ここに至って我々は、最小単位的コミュニケーション、すなわち個対個、一人称と二人称の、「二人」という次元を反省的に見つめることしかできないのではないのではないだろうか。これまでデモクラティックな思想を展開してきた、コミュニティーへの献身という題目が、実はこれまで述べてきたような個人の停滞と壊疽を逆説的に引き起こしてしまうのだとすれば、また、絶対的な単位としての「個」への回帰が困難なのだとすれば、実は、残された道としては、一対一のコミュニケーションについて、その理解を、時に反動的な勇気をもって深めていく以外に方策はないのではないだろうか。デモクラティックな発想や方法が、時にコミュニティー内部で、少数者に苦痛と辛苦をなめさせるのではあれば、我々はむしろ、三人以前の、一対一の、二人のコミュニケーションにおいて、様々な軋轢や問題が生起するしまうその瞬間に、反省的に思いを至らせるほかないのではないだろうか。

 愛する人を傷つけてしまう、愛する故に傷つけてしまうとき、僕とあなたの関係には一体何が起こっているのだろうか。信頼と不信がないまぜになって、結果あなたを信じられないとき、わたしの心の中では一体何が起こっているのだろうか。あなたがわたしを裏切るその時、一体何が起こっているのだろうか。一対一で起こるこうした齟齬(もっと一般的なことばで言えばすれ違い)ということが、実は社会全体に起こりうる齟齬や不協の基点として、われわれが想像する以上に重要な意味を持っているかもしれないということに、我々はそろそろ気付くべきなのかもしれない。そこには、個人と社会とが結節する臨界点というべきものが見えてしかるべきなのだ。一見社会的で人当たりのいい人が、一対一の関係においてはあまりに残酷な振る舞いをするといったことなどは、誰しもが日常的に経験しうるほどに、ありふれた事実であるのにもかかわらず、それについて実践的且つ社会的な考察が加えられていることを、これまで寡聞にして知らない。なぜなのか。または、一対一でのコミュニケーションの円滑こそが、実はデモクラティックな社会が想定する「安定的な」社会を用意するということ、そのことは考えて見れれば実に自明のことであるのに、とたん現実生活における一対一の問題になると、二人同士の個的な問題系として社会が無関心を装う。これもまたなぜなのか。われわれは、これまでデモクラティックな甘言のもとに捨て置かれてきた、こうした「一対一」の、一人称と二人称のみの間で交わされるコミュニケーションの、社会全体の基盤をなすファクターとしての重要性を深く再考するべき状況に置かれていると言っていいだろう。三人以上の社会が、二人だけの空間を、極めて特権的に扱ってきた歴史、例えばあの「プライバシー」といったタームが、ときに本来の意味を越権して、一対一の関係性にあるその社会的責任をネグレクトする形で、その自己都合な秘戯性だけを珍重した結果、われわれは本質的にこの社会を成り立たせているコミュニティーというものが、生来的には一対一の関係性やまたそこに存在すべきお互いへの信頼というものにより担保されてるという事実の価値を遙かに後退させてしまったのだろう。われわれの社会に今もたらされつある、この不気味な絶対零度的停止は、実はそういった「一対一」への軽視によって、宿命的に召喚された悲劇なのではないだろうか。

 

この論考は続きます。