冬の霧

 その日も、同じように朝起き抜けて、体がしびれてしまうほどの冷たい空気に囲まれていた。眠さの抜け切らない体に清涼を取り込むことで体がようやくわなないてくる、だから冬はそうして、いつも寝間着のままで深く乾いた空気を吸い込む。南に面した土間からは、手入れのまばらな焦茶色と灰色の間のような野菜畑が広がっていて、今日は早い時間から老夫婦が土仕事を行っている。赤襦袢に厚手のウィンドブレーカーを羽織った老男性が、旧い壁時計の針のように、見つめ続けていてはそれが動いていることすらわからないくらい緩慢に、土をいじりながら、僕から見て上手から下手へと、ゆっくり動いていく。そして、傍らに、土をいじる夫に何かここからでは目視するに難しいくらいの細かな何か(作物の種なのだろうか?)を、丁寧な手つきで渡し渡しする老婆がひとり。朝霜が照り返す太陽に目を細める僕には、そうとはっきりわからないのだけど、老婆がこちらに一瞥を寄越したような気もしたのだが。

 

  僕は、風呂というのは朝に入りたい。極端な癖っ毛をもつ僕の毛髪は、仮に前日就寝前などに風呂に入ってしまったら、朝起きた時はまるで頭皮から線虫が威勢よくうぞ立っているような激しい寝癖を拵えてしまったものだ。だから、その日も、老夫婦の土いじりを半眼で眺めながらあくびをしたあとは、パパパと手際よく寝巻きを床に落として、直ぐに浴室へ行くのだった。ところで、なぜ冬の浴室というのは、あんなにも辛く寒いものなのだろう。何か冬というのが漫画的な悪魔の様相でもって、意図的なイタズラとして僕が寝ている一晩中、そこへひどい冷気を注ぎ込んでいたのではないかというくらいの。足の裏にひたっと触るタイル面はきっと、その朝に屋外で自然が作る薄氷の冷たさを平気で上回っているようだし、そもそもその空気の残虐なまでの冷たさ。むかしにみた映画で、沢山の受刑者が体をこわばらせながら、機械的な足取りで大きな浴室へ流れ込まされていく場面があったけれど、きっとこんなような寒さだったのだろう、と思う。

  夏の間には、掃除をすれどもすれども、あんなにもしくこく繁茂していた水カビさえも、もはやこの頃はすっかり沈黙をしている。江戸っ子風呂ということばがあるけれど、それくらいの高温にシャワー温度を設定して、一気に体に浴びせかけたい。でもそれだって最初のうちは水道管とホースに前日来溜まった冷水が出てくるものだから、用心が必要だ。間違って第一水を体にかけてしまった時は、鋭く高い声が自然に上がってしまう。それくらいに、あの第一水は、容赦が無かった。

 

  裸のまま部屋に戻ってみると、ここへきて更に野良仕事に本腰の入ったと思われる老夫婦が、僕の室の方にさらに接近したほんの数メートルといった位置で作業を続けている。土を掘り返しては、また埋めている。そんなことを繰り返している。ばかな土いじりがあったものだ。おそらく、あそこからなら部屋の中で棒立ちする僕の姿はきっとくっきりと見えているであろうに、一向にこちらには関心を示さず、ただなにか二人でもぐもぐとお喋りをしながら、土をいじっている。僕の部屋のガラス窓は、大した厚みもなく、普段なら戸外の音が遠慮なしに闖入してくるはずなのに、なぜだか今日は一切の音が聞こえてこない。老夫婦の口元から会話の内容を読もうとしても、その皺ばって窄まった口の動きからはなかなか読唇がむずかしい。辛うじて読み取れたように思うのは、「もう終わり」という言葉だったような。

 

  僕は裸のまま窓際をウロウロして、彼らの注意を引こうとするのだけれど、相変わらずこちらには気付かない。そんなことをしているのに、風呂上がりの体はちっとも冷たくはなってはくれない。色褪せたフローリングの上でピタピタと裸足で歩き回るうちに、淡い憤怒のような気持ちが起こってくる。こんなアパートの中で毎日を過ごしていた自分が、飽きずに土を掘り返しては埋めしている老夫婦と共に、何か知らない誰だかに取り立てるところのない一区切りの現象として扱われているかのようで癪に触る。僕は裸のまま、窓を開けてみて、老夫婦に向かって「おはようございます!」と大きく声に出してみる。初めてこちらを見遣った老夫婦は、別段驚いた様子もなく、二人揃って同じようによわよわと口元を動かしている。確かに口は動いているのだけど、その声はなぜだか聴こえない。ただ何やらこう言っているようだ。「もう終わりだよ」

  

その時、部屋にうっすらと霧が立ち込めるように、水がタイルに弾かれる細かな音が背後からやってきて、シャワーを止めないままで風呂を出てきてしまったことを思い出した僕は、また再び土いじりに戻った老夫婦を背にして、風呂場へと向かった。タイルの上に横たわった僕の上に、冷たい水が降り注いでいる様子は、みているだけでも寒々しいものだったので、シャワーを止めた僕はまたすぐに部屋へと戻っていった。