白塗 2

 男は西松町に寝具店の一人っ子として生まれた。父は男が幼い時から病弱で、男が地元の中学を出る頃には日がな一日病臥する生活を暮らしていた。だから、男は高校へ上がるなり夜学へ通いだし、昼間はよく家を扶けた。そのころは母も店にたっていて、二人で仕入れ台帳とにらめっこをしたり、珠に訪れるお客(大抵は老婆だった)の相手をしたり、お客のないときは店内を箒かけしたりした。西松町駅の南口ロータリーを起点にして伸びる商店街の中ほどに構えられた寝具店からは、斜向かいにある朽ちかけた消防団詰め所の粉吹きしたような屋根瓦に西日が落ちていく様がよく見えた。男と母は、夏の時分であればその詰め所の屋根瓦に橙色の西日が照りだした頃、冬の時分であれば屋根瓦からすっかりと日の名残りが消えてしまった頃をみて、店を閉める準備をするのだった。

 「お母さん、もう店じまいしようか。今日も閑古鳥だったね・・・。ええっと、売上は、枕カバーが5つと、竹の布団タタキ1本、防ダニ脱臭剤2つと、子供用タオルケット2枚とで、合計の金額が・・・」と男が売上表に一行一行ペンで丁寧に書き込んでいく。

 「この時期にしちゃあ出たほうよ。毎日が毎日引越しシーズンだ衣替えだって時期のようには行かないよ」母はシャッターを店の中からソロソロと閉め、男へ振り向きながら言った。

 「お父さんが店に立っていた時は、ずいぶんと布団セットや毛布とかが売れていたって言うけど、もうこの西末町に住んでいる人たち全員が布団や毛布を持っていて、そういう大物は必要無いのかもね」

 「どうだかね。お父さんの啖呵売りの効果もあったんだとおもうんだけれどね。あ、そろそろ食事の準備をするから、お父さんの様子を2階へ見て来なさい。今日は餃子」

 「うん。わかった」

 

 一家は寝具店の2階を日常の居間として使っている。そのいちばん東側の6畳間が父の病臥している部屋である。その部屋の窓はベランダに面した大きなサッシ式のもので、母が昼間にあわただしく洗濯物を干しに出たり取り込んだりと家の中でも交通量の多いこの部屋を、病気療養のスペースとするのはいささか善策といいがたい。それでも父は、その大きな窓から空を見たがった。その時分の商店街には背の高いビルディング型の建物の無かったせいで、ずっと伏している父の姿勢からは空が広く、よく見えたのだった。斜向かいの消防団詰め所の屋根瓦も、ここからなら一階の店先よりもよく見えた。

 「お父さん。そろそろ晩ごはんになるよ。起きてこれるかい?」

 「うーん。おまえか。今日も昼間だというのによく寝てしまったなあ。こんな陽気の時期もあとすこししか続かないと思うと寂しいよな」

 「今日は餃子だってさ」

 「餃子かあ。久々の好物だな。ニンニクもたっぷり入れてくれよ」

 「うん、そうしてもらうよ。精がつくね」

 

 病気の調子の良い時には、父は布団を出てダイニングまでやってくる。持病で肺が弱っているのに加えて、このところは長年の病臥生活で床ずれに罹りはじめていて、食事の時は少し無理してでも椅子に座って採るようにしている。

 「好きだな。餃子」今日はよく休んで食欲があるように見える父。

 「たくさんあるからね。どんどん食べて元気をつけてくれなきゃあね。」母も、父の身体の調子が良さそうな日は、嬉しそうに話す。

 「マヨネーズは?」と父。

 「ええっ?餃子にマヨネーズ?」と男。

 「餃子っていうのはな、知っているか、完全食っていうんだよな。いろんな栄養が一個の中に全部入っている。これを更にマヨネーズにドボン。こうすると超完全食だ」小皿に盛ったマヨネーズに餃子を浸し、父は得意気だ。

 「お父さんの味覚っていうのは昔っからわからないもんだよねえ。病気しているっていうのにそんな塩っ気ばっかりとって」心配をするような素振りながらもよく食べる父の様子に笑みを母が浮かべながら言った。

 「そういえば、お父さん。来週の土曜日に高校の運動会があるんだけど、調子が良かったら来てみない?今ちょうど授業の合間で練習をしているんだけど、夜間の連中だからみんな気性もバラバラで、ちょっとした見ものになると思うよ」と男。

 「へえ、そうなのか。身体と相談してみるかな」無精に伸びてしまった口ひげに付いたマヨネーズをふきんで拭いながら父が言った。

 「お父さん、もしかしてあなた、見に行くんじゃなくて参加するってつもり?」母が先ほどの調子から一変、不安そうに父に訊く。

 「おう?そのつもりだよ。こいつが小学生だった時分の運動会じゃ、父兄対抗リレーのアンカーまでつとめた俺だからな」

 「ちょっとお父さん、夜学の運動会には父兄対抗戦なんてないよ。父兄なんてのが居ない連中だって沢山いるんだから、学校の方も気遣って生徒だけの開催なんだな、多分」放っておけばその場で屈伸運動でもしかねない父を制して男は言った。

 「なんだつまんねえのな。でも見に行けたら行くよ。お前は勉強はできるんだろうけど運動となるとからきしだものな。俺が見に行ったら気張ってやるように」

 「うん。でもまあムリしないでね」

 

 週間の天気予報では雨天が危ぶまれたその土曜日だったが、運動会当日には雲一つない晴天となった。といっても夜学の運動会なので、抜けるような秋晴れの青空ではなく、満天の星空。そろそろ肌寒くなりつつある空気が、普段は履かないトレパンからむき出しになっている白い脛に心地よい。夜間開催ということもあって、近隣への配慮から高校のグラウンドでなくそこから1キロメートルほど離れた河川敷にある町営グラウンドを貸しきっての開催だ。教員や生徒などがそろい、スタンドのナイター照明が煌々と照らされると、それまで空一面に広がっていた星々がその光度を弱めた。

 

 「選手宣誓〜!われわれはー!スポーツマンシップに、の、の、乗っとり〜!正々堂々と闘いぬくことをここに誓いますー!(誓いますー!)」

 かつてヤンキーグループとのいざこざが原因で普通高校を退学になり、18歳になって夜学に再入学した、同窓の沼谷が宣誓を告げると、どこからともなく「誓いますー!」のこだまが起こる。男の父も例外ではなく、出場しないくせに高らかに宣誓に応じている。出場しないくせに母にせがんで箪笥の奥から引っ張ってもらって来てきたミズノ製ジャージを着た父は、久々に夜風を肌に感じながら、いつもより少しだけ若返って見える。

 「お父さん、僕が出る競技はまだまだ先だからテントのあたりにでも座っていてしばらく休んでいてよ」

 「そうか。俺の出る幕はまだまだ先か。出場はしないから、応援だけだけどな」

 「うん。あまり無理せず、みっともないから静かにしていてくれよ」

 「お母さんみないなことを言ってくれるな」

 運動会は100m走、400m走、走り幅跳び走り高跳びとつづいて、いよいよ男の出場種目である200mハードル走を迎えた。スタート位置に向かう男に父がミズノの上着を振りかざして合図を送っている。どうやら、この位置から辛うじて読唇するに、もし下位に甘んじることがあれば小遣い減額だと言っているようだ。そんな父の浮かれきった姿が周囲にどう写っているのやら、男は恥じらいを感じながらスタート台に足を載せる。

 「よーい。ドオン!」夜間を憚ってのピストル代わりの教員の掛声が、短く刻まれた「ドン」ではなく、だらしなく「ドオン」であったために男を含めた二三名の選手がタイミングを取りはぐれ、ギクシャクした足取りでのスタートとなった。スタート直後に身体一つ抜きん出たのは先程選手宣誓をした沼谷。一歩一歩足を進めるたびに顎があがり膝も空を切る。小型車がウィリー走行をしているような格好になりつつある沼谷は200m走り終えるまで首位を守るのは難しいだろう。案の定、最初のハードルに差し掛かる時、前方へ傾斜を付けて飛び抜けなければならないところを、ほぼ上方と言って差し支えないような角度で飛び上がってしまい、着地と同時に臀部をハードルに強打する始末。「ぐっ!」

 次いでトップに立ったのは、30歳で大検をとるために夜学に通っている島本だ。彼は身長190cmでいながら体重60kgという非常な痩せぎすで、ハードルを越え越え走る姿はまるで巨大な授業用のコンパスが何度も開閉を繰り返しているよう。しかし、その独特の角ばったランニングフォームが災いしたのか、4つ目のハードルを見事向こう脛で蹴りあげてしまいもんどり打ってその場に倒れこむ。「いってえ!」

 さてそんな阿鼻叫喚にギャラリーがやんやの喝采をあげる中、その二人を差し置いて今度トップに立ったのは、まさしく男だった。生まれてこの方、保育園でも、小学校でも、中学校でもこうした運動会で一等を取ったことのなかった彼はこの珍事の出来にどう対応していいやらの体。ただひたすらにがむしゃらに走りまくり、残りのハードルが2台のみとなった時、チラと後方を振り向くと、後ろにつけているのは、その頃花盛りだった地元の暴走族「レッドキング」で旗振りを任されている意気盛んな17歳の竹中だ。なかなかのスタートを切っていた彼だったが、重度の喫煙癖に心肺が悲鳴を上げているようで(じっさい「ひゅー!ひゅー!」という珍妙な音を口から発している)、ここから男に追いつくのはできなそう。

 そこからのことは、男にはスローモーションで記憶されている。そういうことが起きたということがよくわからないまま、「良くわからない」という感情のまま記憶されている。あれはジョンだった。町を分断する河にかかる、河川敷グラウンド近く西松大橋の麓に住むルンペンのしげちゃんの飼い犬(法的には飼い犬ではないが実質上飼い犬だった)の、雑種で狂犬病(とされていた)ジョンが、ゴールの先彼方から、男めがけて一直線に走り迫ってくるではないか。その目はまるで、これまで山里で人二三人は殺めてきたような狂気的な印象を湛え、口からは大量の唾液と異様に長く赤い下がベロンとたれ、一歩一歩男に走り寄ってくるたびに柱時計の振り子のように定期的なリズムとともに揺れている。男は思った。ジョンよ、お前の標的はなんだ?教員や出番前の選手たちがつまんでいる斗々屋の仕出し弁当か?それとも自分の後を走る、竹中か?それとも自分なのか?

 ジョンの軌跡と男の走るレーンが見事一直線上に並んだ。ジョンは弁当にも他の選手にも目もくれず、男にむかって一直線で駆けてくる。このまま行くと大衝突は免れないであろう状況だ。男とジョンの目がしっかと見合わせられ、激突の前にどちらが先に進路を変更するかというチキンレースの様相を呈してきている。しかし男としてもジョンと衝突を避けるために立ち止まったりレーンを外れてしまうことは、その瞬間にこのレースでの敗北を意味することであるから、あくまで剛毅に、ジョンめがけて一直線に走り続けるのだった。そう思い自らを奮い立たせるていると、男の脚はそれまでより活力をまして回転するよう。二位以下の選手をグイグイと引き離し、ゴールの方すなわちジョンの方へ更に近づいていく。対するジョンも、闘志を湛えつつも、男の発奮に敬意を表するような練達の勝負師のような透徹した目を湛え、ハードルをくぐり抜けながら速力を上げて男との方へグイグイと近づいてくる。

「ハアハアハアハア!」

「ヘエヘエへエヘエ!」

急遽出来した白熱のチキンレースに、聴衆はやんやの喝采をもってその場のなりゆきに注視する。あと少しで激突するっ!と誰もが思った瞬間、男は一瞬戸惑った。今は頭に血が上っているだけなのか、こんな運動会のハードル走で一位になったからといってなんなんだろう?野犬のジョンともんどり打って正面衝突して醜態を演じるくらいなら、ここで一瞬たちどまって「弱ったなあ」という風に観衆の方へむかって苦い笑いを投げるだけで、それだけで良いのではないかな?そう思った間隙に。それまで全速力で疾走して男との激突まで後10メートルほどとなっていたジョンが急にその踵を返したのだった。

「ザッ!」っと格好の良い砂砂埃をたてて、急停止したジョンはやおら体を翻し、それまでの勢いはそのままに、180度のUターンで来る道を疾走し始めた。その姿を見てわっと一瞬歓喜が胸にせり上がってくるのを感じた男は、先程までの威勢を取り戻して「これでゴールまでまっしぐらだ」とおもった瞬間、しかしながら彼(ジョン)が、先程こちらにむかってくる際には巧みにそのゲート部をすり抜けてきたコース上にある最後のハードル台に、高速でそのままぶつかって行ったのだった。「ダン!」という肉と木がしたたかにぶつかる乾いた音がし、その直後にハードルは前方に簡単に倒れ、あたらしく支柱部の金属と地面がぶつかりあう音を立てたのだった。

 スタートのときには間延びしていたはずの笛の音が「ピーッ」と高く粒だった音を上げ、男が1位をとれたかもしれない200メートルハードル走の無効を伝えた。

 こういったときにはよく、その劇的な様子の強調として「一瞬の瞬間があったあと」などと描写されることが多いのだけど、このときはまったくそんなことはなくて、ただザワザワの内容が入れ替わったのみだった。思いがけなく出来した興奮をゆっくりと冷ますかのように、「あーれ大変だ」とか「いやー、わはは」などと散発的に感想とも感嘆ともつかないような言葉を観衆は口にし始めて、男の名前を呼びながら「残念だったなー!仕切り直しだ!それ!」などと激励する。グラウンドの向こう側では、しげちゃんがジョンの1/10くらいの速力でジョンを追い回しながら(厳密に描写するならゆらゆら左右前後へうごくしげちゃんをを中心にしてジョンがその半径上を駆け回る)「くらっ!」とか「この!」とかいう声をしきりにあげているのがわかる。観衆たちも先程までのレースへの注視をすっかりそちらの方へむけて、この突然のトムとジェリーの出現に大盛り上がりであった。

 

 すっかりと夜も更け、町営グラウンドから家へと帰る道すがら、男はまだ少し興奮した体を冷ますように、上着を腰に巻いた格好で、歩いていた。澄んだ空の中、チラチラと明滅する星たちが、少し物言いたげだがそれ以上はせり出てこない、といった様子で静謐な存在感を放っている。小さな町は既に静寂に包まれ、眠りの準備をし終えようとする少し前の子供のように、明かりを落とすのを躊躇いながらも、徐々に床に入っていくようだ。

 「お前、なんでせっかくの再レースに出なかったんだよ?あの調子だったらちゃんと一位になれたはずだろうにさ」息子の真似をしてかミズノのジャージの上を腰に巻いた父が訊く。

 「うーん、一度無効レースになっちゃうと、どうしてもその次も出るっていうのは億劫になってしまって」

 「でもお前、これまで小学校でも中学校でも、お前がスポーツの競技で一位になったことなんてなかったろ。その折角の機会だったっていうのになあ」

 「もう、いいんだよ。ジョンがこちらめがけて走ってきたときは、絶対にジョンを蹴散らしてでも一位になってやろう、って思っていたんだけど、ハードル倒されちゃったときにはなんだか可笑しくなってしまって」

 「何事でも、一度食いついたら離れない。そういう精神というものがどうもお前にはないんだよなあ」

 「おれだってそれは一位になりたいと思うけど。でもそれってハードル走って括りとそれにくっついたルールがあるからで、その中での一位だから自分にとって気持ちが良いし、追い求めたくなるのかもね。そういうのがなくなっちゃったら、なんで一位を求めるかすらもよく分からなくなっちゃって」

 「そういうのって?」

 「うーん、だから、なにもかもありな状態で一位になっても、それって一位ってことなのかなって」

 「そういうもんかね?勉強でもそうなのか」

 「そういうもんだよ。勉強だって受験とか勉強ってくくりがあるからみんな頑張るんだし」

 「どうも屁理屈に聞こえるけれどな、お父さんには。お母さんはどうなんだ?こいつが一位取れなくて悔しくないのか?」と、それまで二人の会話を聴くともなく耳を傾けていた母に、父が問うた。

 「さあねえ。とにかく怪我がなくてよかったわよねえ。ふたりとも、そんな寒そうな格好して。体に障るから家に着くまでは上着をはおってらっしゃい」

 それまで父子の数歩後を歩いていた母が発したその答えとともに、三人は寝具店の玄関口に着いた。

 

 そんな運動会の秋の一日のから季節はその歩速をぐんぐんと早め、今や西松町の小さな商店街もすっかりと師走に向けて褐色からヴィヴィッドなモノトーンへと彩りを変えていく。男はそれまでと変わらず昼間は寝具店を手伝い、夜は学校へ通うという生活を続けている。一家の団欒の風景もこれといった変化もなく、幸い、父の病状にも悪い兆しは見受けられない。男があの運動会の日のハードル走で一位を取り損なってしまったというあのこととも、徐々に日常の内部へ埋没し、それが家庭内でそれが話題に登ることも、ごく自然な下降曲線を取るような形で、少なくなっていったのだった。

 一体自分は同じ年かさの若者と比して、いくぶん単調で、「あちら側」の価値基準からすればいくぶん「幸せでない」生活を日々送っているのだろうか。何かの刺激もなく、突き上げてくるような内的欲求や目的意識を自分の中を探そうとしても、その探している自分ばかりが気持ちの中で前景化してきて、物を指す先を探しているつもりが、その指先を自分の目をとおしてぼんやりと眺めているような感覚にとらわれることもあった。もちろん、人並みに美味しいものも食べたく、人から注目されることの快さについても知っているつもりだし、その頃よく言われていたような「シラケ」といった感覚とも隔絶したもののように思われる。男は決してシラケてはいなかった。胸の中に何か青春の懊悩とも言うべき苦悶を抱えているという自覚もなかった。そして、何故自分がこの世界に生まれ落ち、そして生きていくのか、そういう不安についても、稀に時間をつぶすために読むだけだけど、いくつかの書物にあたって理解はすることができたが、共感を抱くことも無かった。要するに、男は非常に希少な意味でまったくもって正常だった。置かれている状況や他人の異常さを理解することが出来る、そういった正常さ。思慮と遠慮と良識があったのだ。「人間は、経験を伴ってこそ、はじめて思慮や知性、そして良識と言ったものの本懐を知り、それをもって人間性を発揮・駆動させていくことが出来る」そういうことすら、彼は判っていた。判っていたからこそ、生きることへ簡単に絶望したり、または反対に妙に期待を掛けたりということもなかった。悩みがないことが悩みにもならなかった。悩みがない状態は、かれにとって自然だったし、その自然を享受できるくらいに彼は思慮深かった。

 だからこそ、男はつまらぬ人間だった。周りには、友人というべき、男を一個の捨て置けない存在として接するものはいなかった。また、両親からもそう思われているかもしれない、という男自身の危惧は、危惧では無かったのかもしれない。両親は、男のそういった透徹とすら言える思慮深さを、彼ならではの有力な個性として誇ろうと努力していた。しかしそれは、そう思おうと努力するようにしていないと雲散霧消してしまうたぐいの、儚げでささやかな希望だった。触ると脆い果物の実を手でやさしくほぐし分けるように、そのふわふわとした希望を家族三人で分け合っていた。それは、日々家族が慎ましやかに暮らしていこうとするには、なめらかな手触りの潤滑油として、本来以上の機能性を発揮してくれているようだった。寝具店の窓から、沈む夕日を眺める時、家族の成員一人ひとりが、夕日がするすると無事に地平に潜り込んでいくその抵抗感の無い感じとともに、そのささやかな希望を自らにひきついては、少しだけ本当に自分だけの悦に入るのだった。ただ時間の経過というものが、それが孕む「変化」という性質を漂白され、緩やかげに滑っていく、その好ましい粘性だけを取り残してくれているように。