白塗り 4

 次の週、一段と冷え込みが厳しくなり、空気が頬を差すような日の夕方、男はいつもの通り夜学の授業を受けるため、高校の門をくぐった。今日の一時間目は国語だ。普通高校の教師を定年退職したあとも、夜学の教師として教壇に立ちつづける磯島先生が受け持つこのクラスは、多くの生徒達にとって「息抜き」のようなものとされていた。課題となる小説を読み聞かせる磯島先生の声は、朗々としていながらも、どこか水気や張りというものに乏しく、自然主義文学についての今日の授業においては、その声が、私小説的な裏寂しい予感をさらにそそらせるような効能を持って響いている。すると、男の後ろの席に座った例の選手宣誓の沼谷が、ヒソヒソと話しかけてきた。

「ねえAさ、昨日可愛い女子と一緒にいたじゃん。あれ、誰?」

「え、誰って、まあ昔の知り合い」

「いいじゃん、いいじゃん。ねえ、これ1個あげるから詳しく教えてよ」と、沼谷はヤクルトを机の下から差し出し、さも有効な賄賂品であるといいたげに、笑みを浮かべている。男はそれを形ながらにも受け取って言った。「そんな大したもんじゃないって」

「いくつの子?なんか大人っぽい感じでいいじゃん」

「同い年。中学の時の同級生だよ。っていうか、沼谷さんもあの子の事知っているかもよ」

「なにそれどういう意味」

「ほら、沼谷さんが昨日このヤクルト買った駅前のスーパーでレジ打ちのバイトしているんだよ、あの子」

「えっ、そうなの?俺知らなかった」

「というか、僕らのことどこで見かけたの?」

「いや、あの後パチンコやって帰る帰りにさ、喫茶店からチミらが出てくるのをみたの」

「なるほどね」

「詳しく教えろっておい。どこまでいってんの?」そう言いながら沼谷は。右手の人差し指と中指の間に親指はさむ格好をする。

「なにそれ」

「なにそれって、ダメだなAは。あれじゃん、オマンコのことじゃん」。「オマンコ」の部分を殆ど聞き取れないくらいのかすれ声で発音、というかほぼ口パクのような形で表す沼谷。

「ほんとにそんなんじゃないって!」少し声が大きくなってしまった男は、ハッとして磯島先生の方をチラリと確認する。幸いなことに磯島先生は気づいているのか気づいていないのか判然としないけれど、先程から教材となる小説の解説を続けていた。

「この「K」という登場人物は、作者の門下生であった別の作家のことで、腰を悪くして執筆もままならなくなっていた作者の作品の代筆、つまり作者の口述を筆記する役目をおっていたのですね・・・。大正期の私小説家達は、原稿料それだけでは口に糊していくことは、あー、口に糊するとは、職業として食べていくということですね、そういうことは難しく、こうして相互扶助的に仕事や生活を支え合っていたという状況が垣間見れる点でもこの作品は興味深いわけでして・・・えー、つまりこの時代には、作家的自意識、芸術家の自意識の中には、困窮する自分をいかに赤裸々に表現できるかという心性があったわけですが、一方には見過ごされがちながら現代小説の萌芽となるような実験への探究心もあったりと、まあ色々と論じる点はあるわけですが・・・今日はこの辺にして、また次回そのあたりを掘り下げてみようと思っているわけですが・・・」

 

 明くる日の朝は、前日からの寒波がその猛威を増し、その冬一番の大雪となった。男は母と共に寝具店の開店準備をしながら、こんな日には羽毛布団のセットが二三脚売れないものか、などと話すのだった。消防団の詰め所の前には、めずらしく非常勤団員達が朝から集って、気勢を上げながら雪かきを行っている。「ああよいしょー!よいしょー!」という掛声とともに、沿道につもっていく雪をかき分ける。母はその様子を横目で眺めながら、あんなに一生懸命雪かきしても、昼過ぎにはまたつもっちゃうのに、というようなことを独り言のように言っている。その時、二階からトントントンと階段を降りる音。昨年のあの運動会の折に着ていたのと同じミズノのジャージ上下姿の父が、両腕を肩のところでぐんぐんと回しながら一階の売り場まで降りてくる。

「ちょっと。なにやってんの、お父さん」と母。

「おお、おまえ、雪かきは裏の物置の中か?」腕のぐんぐんをやめ、今度は伸ばした片腕を肘に抱えてぐいぐいと伸長させる運動にうつった父は、いかにもやる気に満ちた様子で、そう言った。

「まさか、お父さん、その体で雪かきをしようっていうの?ちょっと、やめてちょうだいよ、もう」

「やめてちょうだいよもなにも、体もなまってしょうがないし、この牡丹雪みていたら辛抱たまらなくなってしまってさ。ざざーっとひとかきで片付けるから、任せておけよ」

「もう、そんなのだからお医者さんからも愛想つかされるのよ、こないだの検査のときだって、どれだけ俺が体が動かせるか分からせてやるって言っておきながら、結局お医者さんに無理するなって怒られてしょげて帰ってきたでしょ」

「だから、体を動かさないから余計に体が鈍る。体が鈍ったら治るもんも治らないだろう」

「もう。無理してすってん転んでも知りませんよ。ねえA、ちょっと危なっかしくて見てられないから、お父さんの雪かき見張っておいてよ」

「雪かきに見張りなんて聞いたこと無いけど、までもお父さんがそんなにやりたいんだったらしょうがないよな、わかった、俺がちゃんと見とくから」と、発奮する父を見ながら少しの嬉しさとともに、男はそう言った。

「よし、来た。A、じゃ一緒にやるか。ざっといっぺんに片付けちまおう」そう言った父の後について物置に生き、木製の柄に、派手すぎる朱色が眩しいプラスチック製のシャベルのついた雪かきを取り出した。

「あれ、一本しか無かったんだっけ?」と男。

「ああ、そういえば緑の方は前の冬の時に持ち手のところがガバガバに壊れてしまったんだったなあ。じゃあ任せとけ。お前はそのへんで俺の活躍を見ていればいい」そう言った父は、朱色の雪かきを、八甲田山の兵隊がライフルを捧げ銃するようなやり方で抱え持ち、店先の沿道へとのしのしと出ていった。

ざくざくっと小気味よいリズムとともに沿道に積もった雪をガードレール側の方へと積み上げていく父。この人が普段床に臥している病人だということは、通り過ぎる往来の人たちからは想像もつかないことかもしれない。

「ひゃあ、こんなに積もってしまってなあ。ここ数年のうちでも稀じゃないか、こんな大雪は、ひゃあ、こりゃ大変だ」

 父は、自らの肉体へかかる久々の負荷を楽しんでいるかのように「大変だ、これは大変だ」などと言いながらせっせと掻き出し続ける。一塊の雪が道端に次々と積み上げられていき、みるみるうちに店前には元のアスファルトの肌が露出してくる。文字通り雪化粧を剥ぎ取られたその表面が、あられもなくそのザラついた質感を晒す。ほぼ休みなく一息に作業を終えた父が、店先から道路を満足そうに眺めやる。灰色の路傍。ガードレールの濁った白色と、雪の済んだ白色。男は父をねぎらう言葉をかけようとするが、こんもりと積もった成果を見遣り実に満足げな様子で佇む父の姿を、今は少し傍らでじっと眺めていることにする。

 その時。「あ!Aくーん!」道向かいに立った鯉山さんがこちらの方に手を振っている。赤いスタジアムジャンパーにくるまれ、一昨日よりも一層に厚着をした彼女の姿が、白く塗り立てられた世界の中で、まる中空の赤信号のように鮮やかに浮かんでいる。

「あっ!鯉山さん、こないだはどうも」

道を挟んで行われるそのやりとりによって、ようやっと路傍の雪山から目を離し、キョトンとしたような顔を父は男に向ける。

「中学の時一緒だった鯉山さんだよ」男は父に応えた。

「あら、鯉山郁子と申します!え!?あ!?こ・い・や・まです!そうです、はい!」鯉山さんはガードレールに身を乗り出すようにして、父に声を届けようとする。

「コイヤマさん、ね。どうだい?もし急いでなければあったかいお茶でも、ほら、店の中で?今おれたち雪かきが終わったところでね!」父もガードレールに尻を置いて横ざまに身を乗り出すようにして鯉山さんへそう言った。

「ちょっと、お父さん。…ねえ、鯉山さん、仕事に行く途中なんだろ?」男は突然の父の誘い文句に驚きながら言った。

「いえいえ!今日はお休みで、これから少し買い物にいくだけだから。うん、せっかくだから呼ばれようかな」

 

 開店準備を進めていた母は突然の「息子の友人」の来客に驚きながらも、こまごまとお茶請けを出してみたり、座布団を出してみたりしている。

「ほんとにもう、散らかっててスミマセンね…あらあそうだ、ちょうど、お茶っ葉切れちゃっているんだわ。出がらしじゃ悪いわねえ。せっかくなのに。あ、そうだわ、昨日作っておいた甘酒があるわね。それでいいかしら、鯉山さん?」

「突然済みません。どうかお構いなく・・・」店先の小上がりに座らされた鯉山さんは、身を捩るようにしてせせこましく動き回る母に声をかける。今や赤いジャンパーを脱いで、その下に来ていたやや寸足らずな白いとっくりセーター姿となった彼女がその身を捩るたび、そのセーターの白とまるで面を連ならせているように色素の弱い腰のあたりの肌が、なめらかに覗く。黄土色と黒のチェック柄のウール地の厚いスカートは、そうやって腰掛けていると、先程よりもその丈を短くしたように収縮し、皮膚の下でほんのりと血の赤みを帯びた膝小僧を、ちょうどもう少しで隠しきれていない。甘酒の到着を待つ間、鯉山さんは父と、街のどの辺りに住んでいるのかといったことや、ご両親は?、中学の時のクラスは?今日は何を買いに行く途中なの?などと一通りの世間話をしている。その間、男は、彼女が脱ぎ捨てた毛糸のマフラーと、いかにもふかふかしたファーがあしらわれた耳あてが、スカートの太ももの上にこじんまりと鎮座しているのを見つめている。ファーを束ねているプラスチックの部分に、猫のアニメキャラクターがあしらわれたその水色の耳あてが、彼女の年齢からすると少し子供っぽいものに思われてきて、そして同時に、ふと、その耳あての下にある柔らかそうなスカートと、更にはその下の白い皮膜へと思いを馳せていた男は、自分がそういった想念に遊んでいたことを少し驚くとともに、その想念から逃れるように、彼女から目を離した。

「あら、今日は甘く作りすぎてしまったわね」甘酒をすすりながら母が言う。

「いえ、とっても美味しいです。私は好き」

「もっと飲んでいっていいんだよ。しかしAのお友達にこんな麗しいお嬢さんがいるなんてなあ。こいつはほら、むっつりしているやつだから、家の中でもそんな話は一切しないしな。それに夜学じゃあ、周りはヘンなやつばっかりで、あんたみたい友達なんてあそこじゃ出来る見込みもないしな。あははははは」

父は男を冷やかすつもりなのだろう、実に楽しそうにそういって甘酒の入った湯呑みを両手で大事に抱えている。

 ストーブに暖められたトロリとした空気が室内に漂う中、そこにいた皆が少しの沈黙を楽しんでいる。ストーブの上でチンチンと鳴る薬缶の音。雪遊びでもしているのであろう、遠くから聞こえる児童たちの嬌声。膝の上に支えられた湯呑みへ、体を曲げながら息を吹きかけるている、ふうふうという彼女の吐息の音。しばらくして耳をくすぐるようなその静寂の甘さが、恥じらいに取って代わられる頃、男が口を開いた。「・・・でもお父さん、さっき彼女も言っていた通り、一昨日ばったり、しかも久々に会っただけなんだよ。友達だなんてそんな」

「友達だよなあ?」父は男には答えずに、さっと鯉山さんに向き直って言った。

「ええ、そうですね、友達です」湯呑みの中を覗き込むようにしながら言ったその瞬間の彼女の表情は男にはうかがい知れなかったが、その声には少しの笑顔が孕まれているようだった。

「もう、鯉山さんが困っているじゃない。ごめん」と男。

「ううん、全然。A君っ家って、楽しいね」