<ニュー・エイジ>復権とは一体なんなのか 2

 本稿は、昨今巻き起こっている<ニュー・エイジ>復権についての論考第二弾である。前回の記事では、ミシェル・ウエルベックによる長編小説『素粒子』のエピローグにおける著述を参照しながら、現代の状況に呼応する(と思われる)その現象面と社会に内在しいるであろうその動機について論じたわけであるが、今回は更に立ち入って、一体、ポストモダン以降の現況においてどういったエートスがそのリヴァイヴァルを駆動しているのかといったことについて考えてみたい。

 

 そもそも、<ニュー・エイジ>とは、1960年代に西欧先進諸国において勃興した、既存の社会システムやそれが長らく引き連れてきた伝統的宗教観(主にプロテスタンティズム)への批判的視座の実践という側面がある。これは、いわゆる<ファースト・サマー・オブ・ラブ>を最初の起点として、いわゆるカウンター・カルチャーの内部から沸き起こってきた運動であり、既存宗教が結句のところは近代以降の西欧文明に顕現した資本主義体制と両手を携えながら進んできたことに対するベビーブーマー世代から異議申し立てであり、精神世界を今一度経済圏から不可侵たる<自由の領域>のものとして開放しようとする運動でもあった。

 そしてこの運動は、志としては上記のような思想が胚胎していたにも関わらず、その後の歴史がすでに明確に示している通り、様々なセクトを(逆説的に)生み出したり、あるいは非常に痛恨なことに、<スピリチュアル>という語例のもと、文化表象としての宗教文化を批判的に再考するという分化傾向・姿形を目指すという本来の性格を、その発展自体が凌駕していってしまうというダイナミズムに堕ちて行ってしまったのだった。

 今になって思うに、そもそもそういった被文化収奪的な脆弱性こそが<ニュー・エイジ>の抱える本質に近しいものであるとは思うのだが、本来は既存宗教文化から逸脱する(既存宗教文化への嫌悪ともいってよい)よるべない個人救済の欲求を<スピリチュアリズム>の固有化によって顕現しようとするものでもあった。しかしながら、60年代から生まれ育った<カウンター・カルチャー>は、いかにも俗流的な脱構築の手付きがその落ち度を象徴するように、そういった資本主義文化圏における新規(と、たまさか見做された)の言説の恐ろしいまでの被コード性・解消性の迅速さについてまったく鈍感であったために、またたく間に<ニュー・エイジ>を新たな産業として安々と鎮座させてしまったのだった。

 このことは、ベビーブーマー世代にあっては本来であれば寝耳に水のようなものであったろうと思うが、しかし皮肉なことには、ヒッピー→ヤッピーという推移が象徴的なように、むしろ自らが推進してきた劣化(=資本主義リアリズムの顕現としての、カウンターカルチャー俗流化)の純粋かつ摩擦のない移行でもあった。本来<ニュー・エイジ>は、精神分析学的に述べるならば、ベビーブーマー世代が称揚した<個人主義>の無意識レベルでの忘却であったかもしれないし、もっと大きくとらえるなら無意識レベルでの贖罪でもあったのだろう。西欧文明の内奥から発現しながらも、それへの倫理的な反駁として、菜食主義を実践し、カラーセラピーを行い、ヨーガを習得し、ニュー・エイジ音楽を聴き悦境に至るなどを志向しながらも、結句それが体よく産業化してきたこと、等々…。

 

 さて、ここまでが前段的議論である(次回以降の論考ではこのところは省かせてもらうはずだ)。その上でなぜ、そうした<ヒッピーの贖罪>であるところの<ニュー・エイジ>が今、この2010年代末にかけてふてぶてしく復権しているのかを見るのがこの連続論考の狙いであるわけだが、前提的議論は上記と合わせて前回のエントリーをお読みいただくとして、今回は、更なる議論に踏み込んでみたい。

 今、起きている<ニュー・エイジ>復権の特徴として強く挙げたいのは、むしろ上述のようなベビーブーマー個人主義や開放の時代のエートスが持つ副作用(それは<ニュー・エイジ>自体へも矛先を向けていたはずだ)の<アン・ヒップ>さを、<インディー>、<DIY>、もっと敷衍的にいうなら<オルタナティブ>を信望してきたであろうベビーブーム・チルドレン世代、あるいはポスト・ベビーブーム・チルドレン世代がどうやら率先して牽引してしまっているうように見える事実だろう。これは、歴史上はじめてのデジタル・ネイティブ世代であるベビーブームチルドレン世代、あるいはポスト・ベビーブーム・チルドレン世代のエートスと、現在先進諸国において出来している各思想地図とは切ってもきれないものと考えたい。昨今、現代思潮の重要局面として喧伝される<思弁的実在論>しかり、<オブジェクト指向実在論>しかり、それらが題目とするのは、ポストモダンにおける意味の価値乱立(=有意味的無意味性)の超克であったり、身体性への嫌疑、あるいは唯物論的世界把握のドラスティックな更新であったりするのだろうが、このことに現在の<ニュー・エイジ>復権の趨勢を当てはめてみたいのである(というか、当てはめないわけにはいかない)。

 アトムとしての個人と、その個人<性>を称揚し、それらの称揚の綾として社会を思い描くという(牧歌的解釈としての)<リベラル>が、ことほどまでに苦渋を舐めている昨今にあって、果たして我々世代(と思い切っていってしまおう)の誰が、(軽度のものだとしても)絶望を味あわない訳があろうか。公共哲学や熟議民主主義という、漸次的解法が示されたのも今や昔に遡らなければならない中で、あらたな思潮として<非人間>の分野を論じようとする思想それぞれが、全体主義からの蠱惑に耐え続けているように見えながらも、その実としては<オルタナ右翼>にあからさまな程に顕著なように、<オルタナ側からのオルタナの否定>によってその足元が侵食されつつあるように見える今、明晰な時代精神の診断を<時間をかけて=熟議>して、あるいはしようとすること自体が被加速的に追い抜かれてしまっていることは、多くの<良心的な>人々に非常な憂鬱を呼び込んでいる。

 さて、ではその憂鬱を解毒するには一体何が特効薬なのかといえば、当然のごとく効能目覚ましい対処法は今の所どうやら封じられてしまっている(ように見える)。せいぜいが<資本主義リアリズム>といったような現状分析のあたらしいツールを手にして、その定規を様々な場面であてがってみて正気を保とうとしたり、あるいは(自覚的な素振りを見せながら)露悪的な態度でもって物事を睥睨しようとするくらいなものである(重ねっていうまでもなく、こうした態度と<オルタナ右翼>を隔てるカーテンは極めて薄い)。

 

 こうした中、どうやら<ニュー・エイジ>が、そうした懊悩を軽微なものにしてくれる、あるいは鈍麻させてくれるオピウムとして機能し始めているのではないかというのが、本シリーズで論じたいところなのである。ほら、おそらく今読者諸氏は、<そんなことは既に自明なのではないか?>と思ったのではないだろうか? そう、このソフトリーな寄り添いこそが<ニュー・エイジ>復権の(非人格的な)戦略であり、巧みさなのである。

 アトムとしての個を称揚する(伝統的、同時にオルタナティブな意味での)<個人主義>の耐用年数と耐用負荷がどうやら飽和点を迎えようとしている今、その苦々しさからの逃避として<個人の>スピリチュアリズムとし予て発明された<ニュー・エイジ>の舟に再び搭乗してみること、それは、その搭乗の滑稽さを発見した<ニュー・エイジ>復権初期の皮肉屋達(音楽分野で言えば活動初期のOPNことジェイムズ・ロパティンやヴェクトロイドなどvaporwaveの先駆者達にあたるだろう)にとっては、揶揄と諧謔の混合した美しき自嘲であったかもしれないが、今やその舟は、登場人物の誰もが予想していなかったほどに大型化し、何気なくも堅牢になりつつある。

 我々が<ニュー・エイジ>復権を云々する時、そうした初期の批判的視点を忘れてしまってはいけないのではないかという脅迫感は、却ってその反転形として、そこへの没入を更に促すような蠱惑をも(極めてソフトリーかつ強靭に)同時に召喚してしまうのだ。はじめは露悪的振る舞いのつもりが常用化する薬物に似て。この段においては(今まさに我々はその段に居るというのが私の見取りだが)、諧謔はその毒を抜かれ、ひたすらにそこに残された耽美性がいきいきと復活しつつある。怖いほどに美しく。

 相対化の帰結として過去の亡霊が美しげに蘇ってくるという単純な見取りを超えた何か、それへと呼応する特質を、ニュー・エイジは元来的に備えてしまっている。なぜなら<ニュー・エイジ>というのは、そも脱集団化への試みであると同時に集団性への憧憬を棄てきれていなかったし、伝統宗教の否定という神秘性の相対化を志向しながらも個人が弄べる霊性(=脱身体性)としてのスピリチュアリティという性格を備えていたし、何よりも脱資本主義的な経済倫理を志向しながらも、資本主義リアリズムのもっとも異形な顕現としての性格がはじめから備わっていなものなのだから。

 今、誰もが追い求めてやまない<これではないなにか>は、<ニュー・エイジ>という卑近な<彼方>から召喚されつつある。

 

追記:

次回は昨年公開の米ホラー映画『へレディタリー / 継承』を参照しながら、<ポストモダン以降のオカルティズム>と<ニュー・エイジ>復権を論じたいと思います。