〜ドリームド・ポップ〜 音楽<再評価>の昨今 竹内まりや「Plastic Love」によせて

 例えば、60年代末から70年代初頭にかけてリリースされた、<オルガン・ジャズ>の大量のカット盤。例えば、当時は無名に終わったファンク/ソウル・アクトによる知られざる唯一作。そういった埋もれた音楽に日の光を当てたのは、そこから様々なドラム・ブレイクを選り探した初期ハウスやヒップホップのDJ達であり、より本格的には何より80年代後半から勃興した<レア・グルーヴ>の推進者達だった。

 

 思えば、レコード産業の黎明期から、ポピュラー音楽の推進エネルギーというのは常に、<新しいもの>を追い求めることであり、同時に<古きもの>を温めることでもあった。エルヴィス・プレスリーが古いゴスペル・ソングやヒルビリーから霊感を得ていたこともそうだし、もっとわかり良い例でいうと、60年代初頭にUKの若者たちが、米国産の初期ロックンロールや旧いブルーズをリバイバルさせたこともそうだった。自らの外側(ここでは米国)から到来し、それによって参照すべき音楽の歴史と地図、そして自己との距離感覚を表現者たちが内在化していったその<ブリティッシュ・ビート>というムーブメントは、ポピュラー音楽史上稀に見る規模で立ち上がった<再評価>や<リバイバル>と捉えることもできる。

 これは、アイデンティティを異にする<他者集団>との出会いを契機とすることで、自らの拠って立つところを再認識し、更にはそこから歴史意識が立ち上がっていくという運動の一つの現われでもあるかもしれない。だから、何かを<再評価>するといことは、そうやって<他者>との出会いを契機にして、反芻的に過去の輝きを発見するという運動という一面もあるのではないだろうか。

 

 さて、冒頭のようなレア・グルーヴなどの再評価ムーブメントを通り過ぎてきた後、私達には巨大なもう一つの世界、インターネットが与えられた。このインターネットというものは、様々な他者との出会いを可能にしてくれたし、高速に大量の情報へのアクセスすることを可能にしてくれた。一方で、溢れ出る他者の群れと、そこで飛び交う大量の情報は、時に私達を疲弊させもしてきた。こうした<他者の飽和>は、ポピュラー音楽においても、それまでの単線的なポップ史観(ジョン・レノンマイケル・ジャクソンなどを生み出してきた、ヘゲモニーとしての<スター神話>を駆動してきたもの)を日々攻撃し続けてきたのだった(カート・コバーンの逝去とワールド・ワイド・ウェブの興隆がほぼ同時期であったということは、語るのが躊躇われるほどわかりやすい事実だ)。

 その代わりに現れたのは、他者同士が個別に価値を提示し合うようでいて、その実は価値を相殺し合う、全体としては<ポップ>を一方向的に推進する力の衰微という状況だった。<新しさ>を推進してきたエンジン(価値体系)は、その歯車へ油を差されないままになってしまった。「否、<新しさ>はまだ死んでいない」という議論も勿論成り立つであろうが、それまで覇権を保ってきた<新しさの絶対性>は今、ありうる選択的な価値の一つに引き据えられてしまったのだった。そういった中、今あらゆるところで観察されるのが、これまで馴染みのなかった形の<再評価>である。

 

 インターネットが持つアーカイブとしての性質は、今世界中でYouTubeに投稿されている音楽ファイルの無尽蔵な数を考えると、もはやそれを統御する人格を(googleというグローバル企業が物理的には管理を担いながらも)想像することすら困難になっている。この広大な動画の宇宙にあって、かろうじて物語線を引きうるのは、誰か属人的な意味における管理者ではなく、AIとそれによるアルゴリズムであるという事実は、それまでの<再評価>運動においてお馴染みだった<ディグ>という活動の正統性を相対化してしまったかのようだ。なにがしかの情報に<能動的に>アクセスすることで、レア盤を求めネット空間を<クエスト>していくという喜び。そこにはルールがあり、流儀があり、攻略法があった。欲しいあのレコードを手に入れるために、あのサイトで情報を収集して、あのディーラーとやりとりをして、というように。もちろんそうしたサイクルが今も閉じているわけではないが、今起こりつつある新しい<再評価>のフィールドにおいては、取りうる手段の一つになってしまった。

 今起きている<再評価>は、より脱文脈的になってきている。なぜなら、ある特定のジャンルについての見識、歴史的見取り、(もっと即物的な次元で言えば、その盤の価格相場など)を蓄積していくことが<再評価>のプレイヤーになるためのメンバーシップだったのに対して、今ではそういった蓄積を介することなく、<AIに仕組まれた偶然>の出会い(SpotifyYouTubeに仕込まれたアルゴリズムがレコメンドしてくる<未知>のものとの出会い)によって軽々と、自らの趣向にフィットしつつも、それまでまったく知り得なかったものが浴びせかけらるようになっているからだ。それを<発見>するには、自らが培養してきた嗅覚・見識も不要だ。ただ繰り返し自らの<好み>をスキャンさせるだけでいい(お気に入りの動画を繰り返し見る、などを通して)。

 

 さて、竹内まりやが84年にリリースしたアルバム『VARIETY』に収録されている「Plastic Love」のYouTube動画(*1)は、そうした新しい<再評価>の現象を象徴する存在だ(った)と言えるだろう。

 それまでの2年半の沈黙を破り、彼女がいよいよ<大人のアーティスト>へと変貌を遂げたとされる『VARIETY』は、全てを自らが手掛けたソングライティングの充実と、山下達郎の全編プロデュースによる鉄壁のサウンドも伴い、予てよりファンの間ではマスターピースとして知られていた。その中でも絶品のミディアム・ファンク「Plastic Love」は特に人気の高い曲だった(85年には「Extended Club Mix」として12inchがカットされている)。とはいえども、その人気というのはあくまで日本国内の既存ファンの範囲内においてであった。

 しかし、この「Plastic Love」が、2017年にある国外ユーザーによってYouTubeに投稿され、1年ほどを経るとまたたく間に世界中で2,000万回以上という驚異的な再生数に達していた(削除直前では2400万再生に達した)。竹内まりやがキュートな笑顔を投げかけるそのサムネイル画像(元は7icnhシングル「Sweetest Music」に使用されていたポートレイトなのだが)が、やたらめっぽうオートプレイの「次の動画」欄に表示されるのを記憶している読者の方も多いのではないだろうか(それくらい多数再生されているからサジェストされるのか、あるいはそれくらいアルゴリズムがサジェストしてくるから再生数が膨らんだのかを判別するのは困難なように思われるが、実態としてはその両方がインフレーション的状況を招いたとするのが適当だろう)。

 これは、多くのユーザーによる楽曲への純粋な評価・興味ということに加え、勿論ネット発のVaporwave〜Future funkのムーブメントとも濃密に連動しており、<元ネタ>であるジャパニーズ・シティ・ポップへの関心と再評価を象徴する現象ともされる。これまで「Plastic Love」は様々な記事で言及されたり、あるいはカヴァーされたり、ミックスされたり、そのサムネイル・ビジュアルを改変した画像が流通するなど、まさにインターネット・ミームというべき拡がりを見せたのだった(*2)。コメント欄は、ほとんどが日本国外からのもので埋め尽くされ、極東の<未知>のポップ・シンガーによる逸曲を称賛するものが占めた。

 

 このように、それまでドメスティックな範囲を中心としたプロモーションや販路戦略しか行わず、著しく国外での認知度が低かった日本のポップス(とくに70年代〜80年代の所謂<シティ・ポップ>)は、YouTubeを介した再評価ムーブメントにおいてその恩恵を最も享受したものの一つであるだろう。裏を返すならそれは、ドメスティックな音楽が世界中に浸透していく可能性を示すものでもあったのだった。しかも、このシティ・ポップというものは、Vaporwaveが初期からその思想に胚胎していたような、<未体験>たる過去・未来を懐かしむという屈折的なノスタルジアと非常に相性が良かった。なぜなら、世界中の(当の日本人を含めた)ミレニアル世代は、この極東の国が経済的に光り輝いていたバブルの時代を知らないし、その未来への楽観を、享受はおろか、リアリスティックなものとして想像することすらできないのだから。だからこそ「Plastic Love」は、インターネットの向こう側からやってきた、<かつて誰か(=他者)が夢見た失われた音楽>として、それまでこの楽曲を知らぬ者の間で、ふてぶてしいミームとなっていったのだ。ノスタルジアは、追体験できないからこそその効力を増すのだとしたら、他者が描いた夢にこそ、あなたはそれを痛切に感じないわけにはいかない。

  

 昨今の<再評価>は、かつて他者との出会いによって駆動されてきた歴史性の内在化という地平を超え出て、今や、他者がかつて描いた夢との邂逅を通して脱文脈的に繰り広げられている。ハイパー・モダンなネット空間の中でAIのアルゴリズムが呉れてよこした<偶然>と、それに伴う特定の表徴のミーム化、そしてノスタルジアの加速度的な共有によって、かつて誰かが描いた夢が投影されたポピュラー音楽=<ドリームド・ポップ>の復権が、大規模に起こっている。

 今後も、本稿に示した視点から、今観察される新しい<再評価>について、様々なジャンルや具体的作品、アーティスト名を交えながら考えていきたい。

 

 

(*1) 残念ながら当該動画は、昨年12月末、著作権侵害の申立てにより削除されてしまった。その時インターネット上ではちょっとした<追悼>騒ぎになった。現在では、他アカウントからいくつかのヴァリエーションがアップされている状況。これらの中にはアップ後1ヶ月足らずで100万回再生を超えるものもあり、その動画概要欄にはアップ主によってただ一言「Do not delete…」と書かれている。

 

 

(*2) 数ある「Plastic Love」現象考証の中でも特に秀逸なのが、昨年7月にYouTuber、Stevemによってアップされた「What is Plastic Love?」という動画だ。<あの時代>の日本をザッピングしたウキウキするビジュアルを配しながら、同曲の認知拡大の大きな転機となったReditt上のスレッドなどにも触れ、丁寧に解説している。

 

  また、つい先頃、こうした「Plastic Love」を巡る物語の中で一つのクライマックスとも言うべき事件(?)が起きた。tofubeatsによる同曲のカヴァーがデジタル・リリースされたのだ。実は2012年にも同曲カヴァーをBandcamp上にアップしていたという彼だが、一連の「Plastic Love」バブルを経てから改めてリリースされた今回のver.は、オリジナルへリスペクトを捧げつつも今様のDTMイズムがふんだんに詰め込まれており、どこかナイーブなそのテクスチャは、YouTubeアルゴリズム文化への返礼でありエレジーにも聞こえる。