<ニューエイジ>復権とは一体なんなのか

ミシェル・ウエルベック出世作となった長編小説『素粒子』のエピローグ。20世紀から21世紀へとミレニアムが移行する只中、20世紀の量子力学によって切り開かれた成果をもって分子生物学を不可逆的に発展せしめた主人公(の一人)ミシェル・ジェルジンスキの偉業を彼の死後正当に評価したことで、その後の生命倫理パラダイム転換に大きな寄与をしたとされる科学者フレデリック・ハブゼジャックの仕事を、更に後年の科学史家が論評しているという入り組んだ話法を取るこの最終章こそは、この小説の持つ汎歴史的且つ同時に脱歴史的ともいえる稀有なダイナミズムを最も顕著な形で伝える部分であろう。

その中に、20世紀後半にかけて興隆を見せたニューエイジ運動について言及する、興味深いテキストがある。曰く……

 

(前略)ハブゼジャックの真の天才的側面とは、問題のありかを見抜く信じがたいほど的確な眼力によって、二十世紀末に<ニューエイジ>の名で登場した折衷的で混乱したイデオロギーを自説のために転用することができた点にある。彼は同時代人で初めて、たとえそれが時代遅れで矛盾した、馬鹿げた迷信のかたまりと思われようとも、<ニューエイジ>は心理的存在論的・社会的な崩壊から生じた本当の苦しみに対応しているのであることを見て取った。原始的経済やら、伝統的な「聖なる」思想への愛情やらといった、ヒッピー運動やエスリンの思想の系譜から受け継いだおぞましい混ざり物を超えて、ニューエイジは二十世紀およびその反道徳主義、個人主義、自由開放を叫ぶ反社会的側面と手を切ろうとする本来の意志の表れであった。それはいかなる社会であれ、何らかの宗教による統合なしには持続しえないという苦悩に満ちた思いを物語っていた。実際のところ、そこにはパラダイム変革への力強い呼びかけがあったのである。(*1)

 

 さて、今現実の2018年、<ニューエイジ>にまつわって何が起きているのかと言うと、恐ろしいほどにこれと似通ったことなのではないだろうか。というのも、少なくとも10年ほど前までは<ニューエイジ>というのは、冷ややかに眼差され、唾棄され、揶揄されるニューレフト運動の残り滓が沈殿した芥として、もはやパロディーの世界にしか息をし得ない歴史的廃棄物とみなされてきた。それが出来してきた70年代と全盛を迎えた80年代を経て、<ニューエイジ>というのは産業としては煌々たる存在感を示しながらも、その耐え難い俗流性や<抹香臭さ>から、<クール>な文化圏からは忌み嫌われ続けてきた。

 ところがである。ご存知の通り今、<ニューエイジ>は当の<ニューエイジ>自身も全く予想だにしていなかったことに、クールなものとしてカルチャーの前線に躍り出てくることになった。

この現象については、これまでも様々な言説が投げかけられ、vaporwave以降の諧謔的批評性がこれを逆転的に評価しただの、高度資本主義社会における(得るべくもない)自己実現の(打ち捨てられた)雛形として、その純粋な異形性が脚光を浴びている等々…様々な理論武装を惹き付けるトピックにもなっている…のであるが、私の思うところ、上記のウエルベックの文章は、これが2200年という時点に書かれたという話法設定も含めて、昨今のリバイバルと通底する<ニューエイジ>復権の精髄があぶり出されていると思うのだ。

 

 かつて夢見られていた<ユートピア>が、20世紀の100年と21世紀の18年を通して、その実現可能性よりも夢想性に回収されていくことによって、あるいはまた、描かれるべき洋々たる未来が洋々<たらない>ものであると文明人のほとんどが痛感するにあたってその効力を著しく減じたことで、人々は未来よりも、我に訪れることのなかった<在りし日>にむしろ憧憬を抱くことになった。これを<レトロトピア>と呼んだのは、惜しくも昨年生涯を閉じた社会学ジグムント・バウマンであるが(*2)、現在の<ニューエイジ>復興こそは、もっとも観測しがいのある最新のレトロトピア運動であると言える。それも非常に先鋭的な。

 啓蒙主義を発端にする近代的個人主義は、人間存在自体を歴史的経験を通して鍛錬されるべき<個>として措定したのだったが、歴史という鍛冶屋が振り下ろす槌の強さには、到底そうした思想上の<個>が抗いきれるものでなかった。だからこそ、政治空間ではリヴァイアサンが、あるいは民族主義が再度召喚され、内的世界ではスピリチュアリズムが再度召喚されることになった。

だからこそ、かつて非物質文明的精神主義の無邪気な発露として生まれたように見える<ニューエイジ>が、アトムたる個人が後期資本主義からの苛烈な攻撃にさらされることになった今日において短い沈潜期間を経てリバイバルしているのだ、という単純な見取りも見いだせるのかもしれないのだが、今起きている現象はどうやらそういった単線的な理解を超えたなにがしかである気がしてならない。

 それにこそは、あの<加速主義>などとも(一見、旧来の思想空間のチャート図からは真逆のベクトルと見えるかも知れないが)歩みを同じくするような、<オルタナティブ側からのオルタナティブの否定>とも言えるような情況が深く関わっている。それを用意したのは言うまでもなく、唯物論的世界観や進歩主義的世界観の座礁であり、近代個人主義、経済上の自由主義や様々な倫理の開放、そうした個別に由来を異にする様々なイデオロギーを単にリベラルという(犯罪的なまでに)大雑把な括りの元で推し進めてきた60年代以降のカウンターカルチャーが露呈している、目を覆いたくなるほどの陳腐化だった。その陳腐がときたまインターネットという空間に発見されるやいなや、連帯や個人主義の礼賛といったお題目は木っ端微塵に吹き飛ぶことになった。見渡してみるがよい、<お花畑>という(便利な)侮蔑語で、そうした題目が毎秒毎秒荼毘に付されている様を。

 そうした時、かつてのニューレフト世代が経年(老齢化)とともに見出した逃避運動とも右傾化ともいえるこの<ニューエイジ>という屍に、ネクロフィリア的嗜好を浴びせかけているのが現代の<ニューエイジ>リバイバルであるといえるかもしれない。我々が、近い過去に<抹香臭い>と揶揄していたデジタル・シンセサイザーの時代がかった音響を好む時、老齢の歯肉から立つ膿漏の臭いに拐かされるように、成し遂げられなかった煌々たる未来が朽ちていく様を諧謔としてわざわざ愛でているのかもしれない。この転倒した諧謔と、あの<お花畑>のどこに、一ミクロンでも共通する地平があるだろうか。これは、レトロトピアを超え、ディストピア感覚の身体化と、それにともなう自覚的な神経麻痺が召喚した新局面ともいえるのかも知れない。だが、そうやって自覚的にさえ神経を麻痺させなくてはならないほど、我々自身が疲弊にさらされ、圧倒的な自由(という名の孤独)への恐怖に苛まれているからこそ、我々はまた、そこに沈潜することによって、それが当初投げかけていた問題をもうっとりと忘却してしまうのだった。今再び起こっている<ニューエイジ>への嗜好には、自己同一性や歴史性の再獲得のために、元来歴史性を否定するところから興ってきたはずの<ニューエイジ>というものに、(オリジネーターが努めて無視しようとしてきたであろうに顕在化してしまった)元来胚胎されていたプレモダンへの回帰という反動を求めていくという二重に転倒したフェティシズムがあるのである。

 

これまで拙い議論を重ねてきた本稿だが、翻ってウエルベックによる上掲のテキストを読む時、現在到来している<ニューエイジ>についての、かように入り組んだ言説状況を見事なまでに活写しているというのがおわかりいただけるではないか。我々は今こうした状況の真っ只中にいる。歴史的基軸と重力圏は複数に渡り、同時代的言説空間においても、左右上下の差なく、ある一つの言説に纏って更にヒューリスティックな言説が取り巻くというハイパーポストモダン状況の中で、ナショナリズムレイシズムなどの単純な反動的趨勢と並んで、<ニューエイジ>が過去から、そして未来から召喚されているということは、時代をなるべく精緻に診断することで少しでも正気を保とうとする人たちにとって、とても示唆深い現象となっている。

 

(*1) ミシェル・ウエルベック野崎歓訳 『素粒子ちくま文庫  2006年 423頁〜424頁)

(*2) ジグムント・バウマン伊藤茂訳 『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロトピアに魅せられるのか』 青土社 2018年