信じるということ

 一体全体、「信じる」というのはどういったことなのだろう。日常的な語彙としては、「信じる」とは、自分以外の他者がなにがしかの行動や言動を行う際に、それを観察・感受する側である人称が、彼がおこなったことについて、自らが敷衍する規範に乗っ取り、またはその規範を逸脱することなく、ことが行われることを期待する、その期待値が50%以上のことであるように思われる。しかしながら、「信じる」という特殊な精神活動が呼び起こされる時、果たしてそれを信じる側にいる人称は、信ずべき、事を行う主体としての二人称について、そのように単純な信頼関係とも呼ぶような関係性を持っているものなのだろうか。

 その二人称に対して、我々一人称が期待するような行動規範を求める時、われわれはその二人称に自己を内在化する。自己の倫理をその二人称に内在化し、「私だったらっそうする」という、極めて直裁的な規範を適用しようとする。「俺だったらこうするのに」といった、一人称を反射するような、直線的な関係に依らずとも、「一般的にはこうするはずなのに」という内在化された規範を基点として、彼(一人称)は彼女(二人称)を評価しもするし、断罪しもする。信頼と不信という二項対立を牧歌的に惹起する一般的な社会生活においては、そのような一方的力学がもっとも単純に顕在する場でもあると同時に、しかしながら非一般的(と今は言おう)な個別的関係においては、その力学系がいとも簡単に崩壊するとい事実について、自明でない者はいないだろう。

 であればその「非一般的個別的関係」とは一体何なのか。それはご承知の通り、恋愛の地平においてであろう。この論に立ち入る前の前提として「一般的関係」についていうなら、プレモダンまでに担保的に論じられてきた「善/悪」という対立的図式に言及せずにはおれない。絶対的な倫理規範としての神が、近代的な、「契約」という弁証の結果としての技術論的折衷を導き出したという点、もしくは「神」の概念が一個絶対的な規範として存在するその自明性を逆利用する形で、宗教的観念を倫理一般まで敷衍してきたというその史実、それらを参照する際、我々は「信じる」という行為の恣意性や歴史性を再認識せざるを得ない。そしてそこで暴かれた相対性こそが、現代のポストモダン状況における「自由」という思想の源泉であるとするならば、「信じる」というその精神活動やそれを培養した時代も、歴史的文脈の末端に位置し、相対化された観念として論じられるのも無理はない話でもある。しかし一方で、「反自由」の側から提出された様々な暴虐的事例(全体主義でも、アウシュビッツでも、例証に事欠かない)は、その相対的な自由の、「相対的」な部分こそを、ポストモダンの病として断罪すべきであるという歴史的事象を絶え間なく提供してきたことも、事実として動かし難い記名性を有している。そのことはあまりに痛く、苦しく、人類史に残る汚名として、早急にそそがれなければならないし、私も含めた誰しもが、そう思っている。

 しかしながら、この時点で、新たな、しかもまったく予期していなかったと同時に、どこかで少し予期していながらも、その醜さ故に誰もが論じるのを避け、しかも恥じてきた問題が生じてくる。それは、「信じる」ということへの、越権的な不信である。

 僕は、私は、今個々に生きるにおいて、実存的な不安にさらされているという、モダン以降のあまりに自明な言論状況において、それは、それを自ら逆利用するような形で現れる。ポストモダンが、林立する価値を全て肯定するようにして、とても皮肉なことに、同じような手つきでで、あの「愛」という価値すら、越権的に否定する。しかも無自覚に。

 どのように言論・思想が激化、セクト化、もしくは脱意味化しようとも、我々は、哀しいことに、この物質的世界に生き、しかも実存主義的な表現をあえて用いるなら、生かされている。生かされ、極限的なニヒリズムを抱えながら、生きていく中において、能動的な自殺は容易い。しかし自ら命を経つ時、命を絶つというその行為自体が、この悲観と実存的世界を肯定してしまうことになる。だからこそ我々は永遠にもがくべき主体として、その生命を全うするということに一応の目的を付与することを宿命付けられている。これはなにも悲観的見立てではなく、自明に引き出される結論のようなものだ。だからこそ、我々は生きなくてはならない。誰のためでもない、それは個のためであると同時に、あえて言うなれば逆説的に全体のためでもある。

 その時、そのときこそ、我々が生きるということの、もっともエッジーな、そしてもっとも辛苦にまみれた地平が見開いていくことになる。「あなたを信じることは難しい、だけれども、何かを信じていなかければ」。これまで人々が歴史を重ねてきた只中において、「信じる」ということが、この地平において、はじめて語られるべきフェイズを迎えているのだと思う。それは人によっては、またしても歴史が可逆的に巻き戻されてしまった現象の顕現としての「宗教」かもしれない。だけれども、はっきり言うなら、そういう人たちは幸せだ(とされている)。辛苦にまみれたことに、多くの人達はそこまで楽観的になることを許されていない。何故なら、信じることを既に封じられてしまったことを、既に知ってしまったからなのだ。それにおいてもなお、何かを信じていなければ、人は生きていくことは難しい。例えば、友人を、師を、そして、家族を。それが消極的な精神活動だとしても、実存の果に垣間見える、最後の、私達の指先がかろうじて触ることの出来る、凸面なのだ。

 ここまで論じてしまえば、愛を裏切り、それを裏切るつもりもないのに裏切ってしまう、あの一群の人達に対するレクイエムとしてはそれなりに意味を持ったエッセイになってしまている。しかしながら、今わたしは、手を緩めることをしたくない。この文章を省みるならば、読者が、極めて保守的な紐帯主義ともいうべきものを嗅ぎ取ってしまうことは容易であろう。何時の時代であってもすべての新たな世代は「我々がもっとも無気力だ」と思ってきた。様々な価値に晒され、上昇と下降と沈滞と、その縦軸的な場所取り(と場所取りの放棄)を自らの懊悩の培養基としてきた。それは既に、彼が薄々と感づいているように、議論としての有効性を全く失っている。その相対化の波間に自らを埋没させ、某かでも視点を確保しようとし、倫理観の浄化に身を任せるとしても、それは知らぬ間に自らが望んだものであったということを、そろそろ痛さとともに知るべきだ。彼が知るのは、愛の不毛であり、倫理の欠如だ。

 あなたは、彼は、僕は、愛を知るために最大限の努力が求められている。そのことが何なのか、果たしてそこにたどり着くことができるのか、そういう予想される途方もない徒労を、言い訳として用いるべきでない。何故なら、その言い訳によって、あなたが知らぬ間に、若しくは知りながら、あなたが一時期でも愛した誰かが、死に瀕するほどに傷つき、しかもその上に、その傷を癒やすために連鎖的に誰かを、若しくはもっと不幸なことにはあなたをまた傷つけてしまうのかもしれないのだから。

 だからこそ、我々は、あなたは、今だからこそ「信じる」という行為に身を投げ出してみるべきなのだ。いや、それはもっと言えば、他者が自らを「信じさせる」という行為へダイブするほどに、自らと彼の関係を陶冶するその勇気を持つべきなのだ。

 

 あなたは不信心の人だ。

 信じるという訓練は、もしかしたら、いまこのときにおいては、何の意味も持たない。あなたがあなたを信じてくれるかもしれない人と出会うことのできた(もう出会っていると思うよ)その時、初めて、信じるということを信じ始めていいのかもしれない。そのことに手間取ってもしかし、あなたは信じることをやめてはいけない。信じるということに、どこか怖さを抱えているときこそ、あなたは今ここに生きていることの証左を感じることが出来るのかもしれない。けれど、彼を信じることによって、あなたはそのとき、その瞬間に、おそらく彼もあなたを信じていることに気付き、救われるだろう。かつて信じようとしなかった自分も、そのときにはじめて浄化され、祝福されるだろう。信じられているということを、そのときに信じられるだろう。

 僕はあなたを信じようとして、信じることが出来ると思ったけど、哀しいことに、それをすることが出来なかった。だからこそ、あなたには、かならずそれを成し遂げて欲しい。

土の中

乾いた道 黄色のラバーの凹凸の ひび割れたその端から

裂け目がのぞく 下にはただ土がある 死んだ土

 

ダイキとユウキ 大きな建物の前で 待ち合わせて

互いの名を呼び 両手を高く上げ交えて ピシャリという音が空気を切り裂く

その後には空が残る なにも含まない空

かしわ手の音は 布に刺されるマチ針 たくさんの穴が空いている

ゴワゴワのシャツに穿たれた ボタンより大きい穴

  

滝はとうに涸れている けれど水はどこかに 膨よかに貯まっている

すこしあまくて 旨い水

たくさんの兎が駆け 一兎が行方をくらます 一兎とともに迷い出る

そこはかつて 美しさに包まれて 全てが裏返って見えた運動場だった

 

今ではもう土の中 暖かく いい匂いのする

死んだのは土じゃなく 裂け目から見える空だった

貯まっていた水は 知らない間に 土の中へ

染み出していた

 

梢を離れて

 今から2年前。29歳になったばかりの頃。街の空気もいよいよ肌寒さを孕んでいくその日、次にひとりで住むことになる街はどんな街なのだろうという茫漠とした思いを抱きながら、僕はバスに乗っていた。この街にはそれなりに長く住んでいたはずなのに、慌ただしさにかまけてゆっくりと散歩することもままならなかった自分たちの家の周辺を、今度の週末に気ままに巡ってみない?と彼女が提案したのだった。物憂げな陽光の差すバスの車内で、僕たちはほとんど話もせず、彼女は左側の窓に流れる風景を眺め、僕は反対側の窓に流れる風景を眺めていた。

「なんにもしない日なんて久々だね」と、彼女の関心を引き寄せるように、その先に指し示す何かがあるでもないのに、指先を右側の窓から見える景色に向けて、僕は言った。

「なんにもしないわけじゃないよ。お寺にお参りしたり、お土産をみたり」と、視線をバスの行く先へ移しながら彼女が言った。

「それに、こうやって一緒にバスに乗ってどこかへ行くのなんてどれくらいぶりだろう」と僕。彼女はそれには答えずに、路線図にある次のバス停の名前を、小さな声で独り言のように繰り返している。家族連れ、恋人たち、友人たち、沢山の人たちが名も知らなかったバス停から停車のたびに次々と乗り込んでくる中、僕たちはもう、そのどの間柄にも属していないということとを、確認しあっているようだった。

 窓から見える道沿いに立ち並んだマンションや家屋が、徐々に青くて広い空にとって代わられるようになってしばらくすると、その寺の名称をただその通りに冠した名前のバス停に着いた。「ヒョイッ」という掛け声とともに、実際にヒョイッと飛び降りた僕を見ながら、「子供だなー。Tは。お寺なんてすぐ飽きちゃうなー、きっと」と、軽い笑みを浮かべて彼女も降り立つ。そしてとたんに早足になって僕を追い越していく。

「どこ行こうか」

「ほら、やっぱりYもなんにも決めてないじゃん」

「なんにも決めてないけど、なにかはするの」

 彼女に追いすがりながら、しばらく行くと植物公園の看板が出ているのを見つけた。

「ねえ、ここに行ってみよう」

「ほら、することなんてすぐに見つかるじゃん」

 今や横一列に並んだ格好となった僕たちは、その公園の中へ入っていった。枝同士が覆い合い、お互いが見つめ合うように立ち並ぶ木々の間を越えると、大きな池が見えてくる。その傍らのベンチに、カーキ色のチョッキ姿の初老の男性が浅く座り、小さなスケッチブックへ、彼の目に写っているその秋の景色を、エンピツで描き込んでいた。僕は男性の少し後ろに立ち止まり、頭のなかで、そのスケッチへ彩色してみた。木々の色は淡く、池の色は濃く、花の色は・・・そう、出来るだけ明るく、ヴィヴィッドに。そんな僕の気配を察してか、カーキ色のチョッキが少しこちらに翻った。すると彼は僕に向けて腕を伸ばし、エンピツを「1」の字に立てて、片目で僕を見つめるのだった。それに気づいた彼女も、その簡易的な「測量」の仲間に入ろうと僕の傍らに立って、少し微笑んだ。

 

 公園を出ると、僕たちはその寺の境内へと続く小径へ入った。僕たちが順路を間違えてしまったのか、僕たちの他には境内へと往く人はおらず、沢山の人達が次々に向こうからやってきて、傍らを通り過ぎる。すれ違うには少々難儀するほどの道幅のその小径に沿って、いろいろな民芸品や、この地に由来のあるらしい著名な妖怪マンガのグッズが所狭しと並べられたお土産屋が立ち並ぶ。中に、焼きまんじゅうを売っているお店を見つけた彼女が、僕に訊いた。「Tも食べる?」

「おれはいいや。だってここは蕎麦が有名なんでしょ?お腹を空かせておきたいもん」

「じゃあ小さいのを一個だけ」

 しょうゆの焼けた香りのする串付きの焼きまんじゅうを右手に持った彼女は、僕の待っている道向にたどり着くまでもなく、最初のひと噛みをした。人並みをかき分け僕の前へ立った彼女は、「おいしいね」と、まるで僕もそれを一緒に食べたかのように、言った。

 それから僕たちは、逆流する人の波をかき分けし、境内の前へと出た。そこは、確かに話に聞いた通り明媚にして流麗な建屋の群と、それが臨むにはやや朴訥に過ぎるような、さっぱりした庭地の広がる空間だった。僕と彼女は、それらを細い目で眺めつつも、その足は、これまで二人でお寺を訪ねたときにしてきたのと同様、颯爽とおみくじ売り場を目指すのだった。

 とくにそれの為の売り子もいないおみくじ売り場で、子供っぽい焦燥とともに、各々セルフサービスで引き当てた紙折りを持って、僕らは微笑みあった。そのおみくじの結果をここで詳細に開陳するには僕の記憶力は薄弱なようだけど、二人で笑いあったのは覚えているから、きっと、二人ともが悪くないくじを引きあてたのだろうと思う。境内の隅にある、緑の色濃い松の木の枝に紙折をくくりつけようとしたとき、僕はうまく結び目を作ることが出来ずに少し手こずったりした。

 それからしばらくして、先程の焼きまんじゅうもやり過ごした僕は、境内が褐色に染まり始めた頃には、心地よい空腹を感じ、言った。「ねえ、いよいよお蕎麦かな」

「私もさっきのおまんじゅう、ほぼ消化完了」

 生半可な予習でこの辺りの蕎麦情報を仕入れていた僕が、評判の高いお店の場所を調べようとすると、彼女が、「私が決めていい?こういう時はファーストインプレッション」と言った。

 

 小さな水車など民芸風の調度品が入り口に据えられた小さめな蕎麦屋を彼女は見初め、僕たちは暖簾をくぐる。家の店を手伝っているのだろう、高校生くらいの若い男の子が注文を取りに来る。

「えっと。私は、普通のざるそば」

「じゃ、おれもそれで。あと瓶ビールとグラス二つ」

 しばらくして、蕎麦がやってきた。漆の盆に、竹色の丸い笊。そしその上に、普段思う「蕎麦色」よりもやや黒みを含んだ蕎麦。ほの薄い青磁色の地に藍の笹の葉模様が全体に描かれた猪口の中には、出汁の豊穣とかえしの清爽が薫るつゆ。横並びに座った僕たちは目を見合わせて、せーのっというように、啜り込んだ。鼻腔いっぱいに香りが広がったあと、微細に練り込まれた蕎麦殻の欠片が、喉をくすぐる。

「ああ、美味しいね」僕たち二人のどちらが初めにそういっただろう?恐らく、二人が同時にそう言ったのかもしれない。「うん、美味しい」「うん」「よかったね」「うん、よかった」「ありがとう」「急になんの「ありがとう」?」「美味しいことに」「そっか」

 店から出ると、外はすっかり日も落ちて、つい先程まではあんなに賑やかだった通りからもすっかり人が消えている。昼間降り立ったバス停へ戻ると、運良くすぐにバスがやってきた。往きのときとは違い、僕たちを含めても片手で数えられる乗客数しかいない車内で、僕たちはベンチ席に並んで座った。スマートフォンを眺めながら今日の復習をしている彼女はとても楽しそうだった。

「ねえ、あの近くに銭湯もあったんだって。今度来る時は、まず銭湯にいって、お蕎麦を食べて、そんでまたお寺にお参りして、とかもいいなあ」

 僕たちは、今度またここを二人で訪れることはきっと無いだろうということを知りながら、今度またここを二人で訪れるときのことを、細に入り話し合った。

 

 マンションへ帰宅し、彼女が洗面台に立ったのに合わせて、僕は一服しようとタバコの入っているズボンのポケットをまさぐった。すると、境内へ至る小径でふと手にとったパンフレットもそこへ入っているのに気づいた。その一節に、こう書いてあった。

『ここ、深大寺の歴史は約1300年前に遡ります。深紗大王を祀る当寺は、開祖・満巧上人の出生の逸話により、縁結びのご利益でも知られ、幸せを願う多くの恋人たちが訪れる地となっており・・・・・・・』

 僕はベランダに立ち、それまで安住していたそれぞれの梢から色づいた葉をさらっていく風を感じながら、タバコをポケットにしまい、その代わりに、ありきたりなやり方だと思ったけれど、ふっと白い息を吐いてみた。あの美味しかった蕎麦の味と、ありきたりだと思ったけれど、そのときの彼女の嬉しそうな顔を、きっと忘れないのだろう、と思ったら、少し涙がこぼれた。

白塗 1

「白塗」

 

1.

 

 男は毎朝早朝に起床をする。大体5:306:00の間には起床する。起き抜けてすぐ、日課のジョギングのため、近くの小学校の外周を約34周する。今より年若の頃でも、朝のジョギングの習慣をもっていた男ではあったが、その時分では、周回数はせいぜい1周、稀に2周という程度であった。特に目標周回数を増やそうと明確な意図があったわけでもないし、これといった理由も見当たらないのにもかかわらず、どうしてか経年とともに周回数が増えているというのも、抗えない体力の減衰に鑑みるなら自らしても不思議な事ではある。まあ、結果的に心身の健康が増進するなら良いわけだ。「健全な精神は健全な肉体に宿る」と昔から言っている。健全な肉体が我が物としてあるのだから、良いことだ。

いつも寄る公園の小さな花壇では何かの花が花盛りである。この花壇の花だけではなく、男は花の名前に明るくはない。花に対しての博物学的な興味はない。けれど整然と植えられた花々の様子はこころを和ませる効果があると思っているし、花はそこにあってそれだけで確かに綺麗だし、男としてはそれで満足もしている。

 

 ペンキは町のホームセンターから、ありがたく拝受している。ホームセンターには石川さんという初老の男性のレジ係がいる。石川さんのシフトは水・木・土・日の週四日。一週間のうち他の曜日に石川さんがどのような仕事をしているのかについては町の誰も知らない。この国の今自分の経済状況では、ホームセンターのレジ係という仕事だけで口に糊することは難しいことは誰にでも分かることであるが、かといって石川さんがどのような暮らしをしてるかに興味を持つものはいない。だから、石川さんの生活の実態は、水・木・土・日についてしか知られていないし、それ以外の曜日の石川さんは、町にとっては、存在していないといっても良いのかもしれないかれど、男にとっては石川さんと水・木・土・日に会うだけであるし、その日に石川さんが元気そうであれば、男としてはそれで嬉しいことである。

 

「今日はどれくらい必要なの?ペンキ?」

ホームセンターの裏口に面した荷さばき場で、石川さんは男へペンキを渡す。

「うーん、今日はちょっと足を伸ばして久々に市電に乗って北井町まで言ってみようと思っているんです」と、男。

「いつもながら精が出ますね。北井町といったらずいぶん遠くだ。あの辺りは未だに不埒な連中が野良野良している、ちょっと危ない地区らしいじゃないですか」

「どうやらもう剥がれかかっているらしいということでね」

男はそういいながら、慣れた様子で石川さんから中ぶりのペンキ缶を受けとり、使い古してくたびれた黒いリュックサックにそれをしまう。

「ではそろそろ出発するとします」

老若男女取り混じった店員たちがだるそうにホームセンターへ出勤する中、男と石川さんは、荷さばき場に据え付けられた喫煙所でひそひそとそんな会話を交す。

「火の用心」と白いペンキで大書きされたブリキ製の赤い自立式灰皿から、吸いさしで中途半端にもみ消されたタバコの煙がか細く立ち上っている。

 

 この町から季節というもの失われて久しい。いや、例えば季節それ自体の変化は物理的な現象としては目にも現れてはいる。季節についての知識はこの町が開闢して以来、綿々と積み重ねられている。春になれば入学式が行われるし、夏になれば中華料理屋は冷やし中華をはじめるし、秋になるとメニューから外される。冬になればクリスマスソングが溢れる。けれど、その時に現れてくる「季節」というのもは、どこか露出趣味的な、自己完結的なものに感じられる。

 そういった意味では、男は季節について累々と言を弄するということもないし、入学式へ参加することもないし、冷やし中華は好物ではない(クリスマスには少し浮き浮きするけれども)。けれど、花の名を覚えずにも花を愛でられるように、季節について「知る」ところに、男は拘泥しないというだけだ。

 

 ペンキの練り方について男は一家言を持っている。粘性を高めれば乾きも早い。しかしその分、塗った側からムラが出やすいので、そのところに注意を要する。やわらかな食感を得るためパンケーキの生地を練る際にたっぷりとした動かし方でヘラを使うような仕方で、白いペンキを練る。空気成分をたっぷりと含ませるように、持ち上げた刷毛を、再びペンキに浸す際、

ねるべく薬鑵中の沢山のペンキに空気が触れるように、ドボンと浸す。かといって一方で

、気泡を含ませるようにしてはならない。そうした一連の動作の反復が男に安息をもたらしているのは事実であるが、先に「一家言」といったが、それを決して人にはひけらかすようなことは、勿論しないし、そもそも出来もしないことだ。他人の視線という「気泡」が、この作業に介入してきた途端、この仕事から粘性が消えてしまう気がする。しかしながらそしてまた、この動作を秘め事として奉ろうという気もさらさら無い。ただ、かき混ぜる。男は時々、この白いペンキが、白い飯に見えて来ることがある。よく炊けた、湯気の立つ、白い飯だ。白い飯は好物だ。

 さてペンキが練り上がったら、男はおもむろに、第一筆を書き記す。アスファルト上で色剥げたその白線の上に、刷毛で一気に、塗る。なにをするにつけても最初が肝心だが、この作業の書き始めほど、大事なものは他にあるまい。最初は10センチ、そしてそれに続いて20センチ、1メートル、5メートル、どんどんと塗り進めていく。

 

「おはようございますう。あらら、お久しぶりで。」

まだ学童が登校する時分のだいぶ前、自分の「持ち場」に早くからやってきた「緑のおばさん」が男に近づきそういった。

「これはどうもおはようございます。すっかりこの地区ではご無沙汰してしまって。」

と、男。

「いつもいつも助かっておりますのよ。わたしもこうして毎朝子どもたちの通学路にたっておりますと、あの交差点が車通がこのところ増えてきてキケンだとか、あそこの公園でで変質者(と、ここで「緑のおばさん」は顔をしかめてみせる)が出ただとか、いろいろなことが気にかかってくるものですが、この辺りに住んでらっしゃるみんなさんはそんなことをただお話をするだけで、だあれも自らそういうのに対処しようなんてのは思っていませんものね。え?そりゃ勿論お役所の方では何もやってはくれませんしね。ええ。まったく最近ときたら、無関心?というのでしょうか、なんというのでしょうか。ちょっと今日は寒いわねえ。おおさむ。しかし、なんですか、ホントに嫌になりますわね。この辺りはどうも治安がよろしくないと申しましょうかね、先だっても茶髪の若者たちに「ババア、緑のババア」などと言われたもので。いえいえ。お気になさらず。わたしは心をひとより強く持っておりますので、そんなのにはビクとも動じませんけれどもね。でもそれでも私もこうしていると、かわしらしい学童さんたちから「緑のおばさん、おはよう」なんて言われますとね、こう、まあ。私もこの街に住んで30年?40年かしら?になりますものですし、これでもまあこの地域の住民としての誇りといいますか?その。まあ、なんと申しましょうか。しかし、こうして剥がれかけた道路の白線を塗りなおして下るのには、とっても助かってるんです、どうも。しかし冷えますわね。今日は。さむいです。」

 男は「緑のおばさん」の立派な心がけに感じ入りながらも、手の方は止めること無く、ひたすら白線を塗り塗りしている。もう最初の塗り始めの地点から30メートルも進んでしまい、話を続ける「緑のおばさん」の姿ははるか遠のいている。

 作業に集中すると「せっ、せっ、せっ」と無意識にの内に声を出している男。「せっ、せっ、せっ」の声がリズムを作り、その「せっ、せっ、せっ」の声が、自らの声ではなく、どこか意外な空間から到来した環境音のように男には感受されるとき、これ以上に平穏な時間はないのではないだろうか、という気持ちが沸き起こってくるのだった。

 

クリーンナップする

 例えばウォーホルのファクトリーにおいても、日毎夜毎に参ずる、自称・他称・あるいは誰彼が「称する」などといった前置を必要としないほどにそこへ必然として参じてしまっていた「クリエイター」連中が、参じていることそれだけで痕跡を残すように、その場を汚していくことがあったはずなのだが、それを、綺麗にクリーンナップし、掃除し、汚された家具なりソファーを原状復帰していたりした人がいたのだろう。そういう人たちは、いわゆるところのカルチャーを回顧的に眺めた場合、どのように捉えられているのかしら。芥は溜まり、蓄積となり、薄汚れた空気と埃を吸い込み続けることを自らのアイデンティティと誤解したヒップスター達によって、それらの堆積は神話となってきた。が、その神話を神話として語り部に対して語るにたるものとして、無自覚であったにせよ(というか後述するようにまさにそうなのだが)パッケージしてきたのは、他でもない、そうした「清掃人」たちではなかったのだろうか。物事をエディットし、エディットしたことによってのみ自己満足に陥る自意識肥大傾向の者共とは、全く隔絶される、ただの清掃人。ただの清掃人が歴史を歴史として俯瞰可能に変換してきたのではないか。だれにも知られず自らも知らず。

 彼ら清掃人は、みずからが清掃人であることすらにも自覚的では無かった。表象面のみを取り沙汰せば彼らはもしかしたら「くだらない」取り巻きであったかもしれないし、「くだらない」単なる鑑賞者であり、そこにいただけの人々であったかも知れない。もちろんあなた方の記憶にも記憶されず、しかも彼ら自身の記憶にも記憶されないような。セレブリティは、他のセレブリティや只かしましいだけの情報発信者にたいして、いつもお馴染みの懐柔もしくは反抗的態度をとることでするように、彼らを自身のセンセーショナルな自己意識の培養器とするつもりは毛頭から無く、だからこそ、彼らのことを貶しも、ましてや敬いもしない。というか、それは背徳や名声に内包された単なるシステムでしかないし、そのシステムを主体として駆動させているのは誰といえば、あくまで自らや自らが射程できる範囲の出来事でありパワーであって、システム総体を駆動せずとも構成するのが実のところ彼ら清掃人だということに対して、気付きを得ることはない。見ないもの・認知し得ない存在は前提的に存在しえないという昔ながらのゼノン的唯我論に絡め捕られているように…?

 彼ら清掃人をサイレント・マジョリティなどということばに回収しないで欲しい。彼らは個々としてはサイレントでもないし、マジョリティでもないだろう。だからといってラウドでも、マイノリティでもない。そういった実践的・統計的な分析構造からこぼれ落ちてしまう、個々の人々。多数の個々。しゃべり、生き、食べ、性交もしている、そういった個々が参集し多数いるというだけの事実。事実というのは案外にそういう個的な状況の集合体であったりするのであろうし、ただそれらを秤にかけやすい事象として把握したいがための欲求が先走ることによって仮定されている「集団」という幻想が前景化してしまって、「事実」というもの意味が歪んでしまっているのだ。これは上位的に仮定される所謂「共同幻想」ではない。あまりにもその性質を異にする個々の幻想が数量的にも想像的にも多岐に及ぶことで実際的な観測不可能性を負っているために、それにめげた観測者達が、断裁的に物語るいわゆる集団についての幻想なのだ。清掃人は清掃人として類型を持たない。だが、個としての身体的外郭は、明らかに、もっている。「コギト・エルゴ・スム」などを持ちださずとも、彼らは生活感覚を先天的・後天的に身にまとい、そして生きる。実存は本質に先行する?否、断じて、先行しないのだ。実存への気付きこそが、実存性への尊大な態度の現れなのではないか。

 個的な作家性、またはその発露、またはそれを動機づける欲求、それらを表出させるのは、創作者個人であるとともに、実のところ、こうしたクリーンナップを糧とする、単なる生活人であることを決して忘れてはないらない。このことは創作者へ向けて言っているのではない。都市に生きるとは、だれしもが清掃人にならないわけにはいかないからだ。シンプルに言えば、自らが汚しうる自らの生活圏を自らが再び再生させなくてはならないのだから。生活圏とは、ヘクタールで換算できるような物理的面積でもあるだろうし、もっといえばトポス的土地であり、そこに堆積される汚れは、堆積されるままではカオスを招来する(アナーキズムなんていう牧歌的なものではない。それは徹底的なカオスとなるだろう)。ニヒリスティックにその堆積をやり過ごすことは、そうした無関心を標榜するだけは容易い。しかし、何時かはすすがれ除かれ、反芻されなくてはならない。なぜなら、堆積(=剪定の無い主観的事実の蓄積)だけで歴史が造られるのであれば、それは広大な時間空間と次元的無方向性を却って増長し、単なる記録と記述に堕してしまうだろうから。堆積こそが伝統であり文化であると考える向きもあるかもしれないが、それは本来的な意味での伝統や文化ではないし、そのような堆積のみの世界に仮に生まれ落ちてこよう我々は、あたかも無限に奔放な空間に放り投げられた永遠に乱反射運動を続けるスーパーボールがごとき存在でしか無くなってしまうのだ。伝統主義者も勿論、もしくはなおのこと革新主義者達こそが言うだろう、個的に、ある種デカルト座標に置換できるような形で「偉大なる」精神が蓄積されゆくこと、それこそが歴史であり、人類の前進であると。しかしながら、残念ながらそうではないのだ。誰彼に記憶されることもないけれど、堆積された物・事を粛々と、自ら達によって、時々のエートスや生活尺度に合わせて、クリーンナップし、自らのためだけに再定義する、そういった多数の「個」こそが、実のところ歴史のダイナミズムを担っているのだ。彼らはそのダイナミズムを自ら用いることで自らの拠るところにしないし、ましてや、自らの文化的なアイデアを説明するためにもこれみよがしに援用もしない(そうした精神活動は無益な自己撞着であると感づいている)。ただ、幸せのために生きているだけだし、同時にそこに多少の苦悩があることも経験的に知っているだろう。知っているからこそ、そういうダイナミズムを喧伝もしないし、実存的不安を避けることも出来るのかもしれない。常々思うことだが、私はそううものになりたい。そして、何かを創りだすことにも精を出すことも忘れたくない。常に「お出かけですか〜?」と道を掃除し、世に対しながら、ブリコラージュし、何かを創りだしていられるようにしたいのだ。

「経」と不変

 さいきんは「経たな〜」という感慨、それはまあ碎いて言えば年取ったな自分、ということなのであるけれど、そういう感慨が深い。いや、自分の年嵩からすれば、異様に深すぎる、ような気がする。そして、なぜだかこの感慨が実に心地よい。みなさんはどうですか?経てますか?「経る」というのはダウンタウンの名作コントでおなじみというか、僕の世代の精神へ絶大な痕跡を残したワンセンテンスだと思っている。

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 わたしはいわゆる松本信者ではないのでこのコントを論評するなどということは出来ないし、避けたいけれど、「経る」ことに鋭敏なのについては人後に落ちないような気がする。

 人間が時の経過を感ずるのは何をもってしているのでしょう?巡る季節の経過か、肉体の鈍麻か、膨張か。わたしが思うにそれは相対的な感覚というより、ある種人間精神に初期的に胚胎された感覚ではないかしら、とこのところは考える。たとえば、久々にあった友が太っていたり(お互い様なのですが)、結婚していたり、嬰児を抱いていたりすれば、それはもう視覚的にも分かりよく経たな、ということなのだけど、そういう即物的な(ひとが親になることを即物的とかいうのは反社会的なものいいかもしれないが事実あたらしい肉体がゼロ(?)から出てきて空間を占めているわけだから許諾いただきたい)こと以上に何かあるのではないか。

 だとすれば、自分が社会の中で擦れっ枯れて、揉まれ、圧され、所謂「経験」を積ませていただくなどしたことを発端として、精神内容に変節を来し、その変節の振れ幅をもって、あのときの精神とこのころの精神をx軸にマッピングしようとすることで、経ている感ユークリッド幾何学的に感得しているのだろうか。そういうこともあるでしょうね。でも、だ。でもなのだが、僕は「経(へ)」の感覚について思い馳せるとき、なんやらそういう物理的精神的変化が「経(へ)」を駆動しているようには何故か思えないところがある。

 むしろこれに対して、最近思うこととしては、不変という概念こそが経(へ)の培養器になっているのではないかと思ってしまっている。なぜなら、自己が不変の地点を自己内に持統しうるからこそ、身の回りの「経(へ)」について敏となれるのではないだろうか。動きようのない不変の何かが、全ての相対化を透過して存するからこそ「経(へ)」を感得するのではないだろうか。移動を重ねて、せわしなく過ごししている場合、むしろその時は「経(へ)」の感覚が鈍麻するということを経験したことがおありだろう。「楽しい時間は一瞬」という俗言はこのことを言っている。振り返る地点を獲得し、繁忙から脱して落ち着きを得た時にはじめて、ひとは「光陰矢のごとし」と思う。矢になっているその人自身は矢である自らの速力は感じないのだ。一般に、不変というのは経過という概念とは全き反対概念として把握されるものである。歴史は直線的に流れ行き、直線的に伸長して、ゼロから終わりへと流れ行く(と思われている)。しかしこれは主語の立て方があべこべなのだ。歴史は伸長しないし、歴史認識とは後天的に獲得ないしは叙述されるものだからだ。

 不変であるという感覚はどこに存するのであろう?おもうにそれは、肉体の不変を信じる人によっては毎朝起きるたびに昨日の自分と今日の自分が連続的に自己同一的に感得されるという得心であろうし、悠久と流れながらも信なるものを共有しうる共同体における共通の歴史認識であったりするだろう。ポストモダン以降、そういった「不変」は悪政体をも惹起した封建的土壌を用意した盲信として一度精算され、相対的な地平にひき据えられたわけではあるけれど、今巷に喧伝されるように、不変の拠って立つ礎としてそうした歴史性を持ち出してくる例は多い。けれども、果たしてそうしたある種擬制的に充てがわなければ存立し得ない不変とは、はたして本来的な意味においての不変なのであろうか?という議論もある。それこそポストモダンを経た後であるからこそ、宿命的に脆弱性を内に秘めた不変でしかないように思われる。

 または、「経(へ)」の感覚は、そうした歴史的基準点を設定したところから漏れでてしまうほどの、何がしか強固な不変、こういったものに担保され、また駆動しておるように思えてならないというということもある。それはいわゆる「ア・プリオリ」か?「語りえないものか」?もしくは神という概念なのか?もしかしたらそうかもしれない。そこで一つの仮説として、トポスという概念を提出してみたい。これは詩学における「定形」とった概念でもあるし、おそらく、歴史的集合性やコミュニティーが相互影響的に培養した一概念として理解されるべきで、既に述べたようなある種の犠牲という言い方に近い。ここでいうトポスとは大層な用語を用いたように看做されることもあろうかとおもいつつ、単に場所ということであるような気がする。場所は、それは大宇宙的に言えば不変の場所などありえない。(地球は自転・公転しているし、太陽系も銀河系の中を突き進んでいるし、銀河系もまたアンドロメダ大星雲と信じられない速度で接近しているし、宇宙もハッブルがいったように加速度的に膨張している)。しかしながら、先の移動をするときにこそ「経(へ)」を感じ得ない例を出すまでもなく、ここに我が身体が固着されているという感覚を覚えるときにこそ、周囲は迅速に流れ、我が身を置き去りにされたように思う。このことは、前に述べた擬制と同じように思われるかもしれないが、そうではないと思われる。場所とは、拠って立つところであると同時に、己が生きると同時に考え、行動し、ときには反駁し、ときには自己否定をする、そのフィールドである。物理的な意味においてと同時に、思考空間の起点でもある。この「場所」が個に固着するからこそ、周囲の「経(へ)」を鋭敏に感受することが出来る、基準点であろうと思われる。

 わたしはこれまで上板橋という様々な文化的文脈から置き去りにされた土地に長年居(=場所)を構えてきた。これまで、これほどまでにドラスティックな「経(へ)」をつきつけられたことは無かった。文化的文脈やコミュニティーから隔絶された場所にじっとりとへばりついていたこの8年間余りというもの、それなりに忙しく過ごしていた。だけれども、これまでの人生でこの8年間ほど「経(へ)」を感じたことは無かった。そして、その「経(へ)」は、わたしにとっては、とても心地の良いものだった。従来の保守議論においては、コミュニティーやア・プリオリ的なサムシングこそが現代的分裂症を防ぐとされてきた。いや、これは自信をもっていえるが、わたしは上板橋にコミュニティーも歴史も求めた覚えは一切ない。けれど、「経(へ)」を確かに心地よく感じて、むしろその「経(へ)」をテーマにこうやって愉快に文章を綴ったりしている。これは一体なんだろう?コミュニティーや信仰といったこととは全く違った何か、それは場所というこのある種即物的な概念によって「経(へ)」を観察し、味わいすることが与えられたんかもしれない。

 そしてこのたびわたしは住まう土地をうつした。たった数日間であるが、矢のごとくうごきまわるにつけ、刹那「経(へ)」の感覚を喪失している己に気付いた。それは移動にともなう喪失の感覚である以上に、動いているからこその相対時間の停止というべきかもしれない。

 「経(へ)」はわたしを心地よく眠りに誘うと同時に、蠱惑を惹起しもする。わたしは引越し後はや数日にして、ここに腰を落ち着けることに魅惑を感じている。なぜならふたたび深く「経(へ)」の感覚を味わいつくしたいからだ。なまぐさかもしれない、愚図かもしれないけれど、そう思っている。

2015年7月頃 朝の上板橋

まだ雨は上がらないのだろうか。いや、この部屋から聞こえてくる雨音にはいつも独特の響きがこもったものであるため、私は今自分の耳に聞こえてくる音が果たして何によるものであるのかということに、確信を持つことが難しい。「聞こえてくる」という表し方がこの場合正しいのかどうかという確信にすら至ることができない。ただ玄関の、見立て50cm四方しかあるまい空間に閉じ込められながら、私はまるで一切コージーな気持ちにはなれずいる。はたしてここが居慣れた空間であって、数秒後に、外界へと歩を進めていくという、毎日に予定されたいつもの身の振り方が続いていくということに与するのが難しいのである。私の耳の奥から、感覚器官である耳の奥から、脳裏にやってくるそのさざ音は、まるで思慮の浅い近所の核家族たちの空々しい朝のお喋りが遠く彼方から感受されるような仕方をもって、私の心に蟠る。そしてたいていの場合、こうした蟠りの感覚は、お馴染みの動作(たとえば、玄関先にあるただ雑然と脱ぎ散らした靴を右から順に二、三回、前後させつつ、所定の場所へ配置しようとする無意味な動作)をもってその存在感を増じてくる。日によっては、この反復は、その動作がさらに別の動作を呼び込むように自らにこべりつき、あたかも無限に続くかと思われるようなこともある。その時は既に、私の肉体は、私の意思とは関係のない形で、動作に隷属する物体と成り果ててしまうようである。また、「右の靴を左のそれより少し前に配置しなくてはならない」というこのルールは、実際に右のそれを左のそれより少し前に配置するという明確な意志に裏付けられた動作をもって一回で単純に完結させることを望んでいない。仮にそうやって配置をうまく完成させられたとしても、私を満足させることは出来ない。なぜなら、私が私の内に持つ明確な意思が仮にあったとして、その意思があまりにも簡単にその動作を一回で完結するようでは、その単純で合理的な行き方に私は一方で鼻白んでしまうし、どこか得心をすることを許さないのだ。何度も何度もスニーカーの位置をずらし、検分し、そしてまたずらすという動きの中に、偶然というものが持つ美徳を見出そうとしているのかもしれない。その偶然への憧憬は、繰り返しの行動が召喚する意思の鈍麻と、そこから引き起こされる無意味性のようなものへ憧憬であるのかもしれない。けれども、配置が本当の意味でアットランダムであってはいけないというプリンシプルを、一方で私は捨てきれていない。偶然を奉じるのであれば、「正しい」配置など本来は、無いのだが、一方、意志の力で「正しい」配置を願っている

 私は毎朝のように、出勤の前にこのような儀礼を通過する。この種の儀礼は、とりわけこうした朝の時間に多くある。他の例を挙げていけばキリがないほどではあるが、象徴的なものとして私は靴の事案を挙げたまでで、およそ読者が想像し得る様々な一般的な男性の朝の生活習慣につきまとってくるのである。顔を洗う時の手の挙げ方。服を着る時の速度や順序。剃刀で髭を当たる時の肌への入角度。用便の時の便座への密着面積。

そうして、一連のことをこなしながらいると、不思議とこの頃の雨の音が、私の意思とは関係なく、雨の音としてそこにあろうとしていることに、私は徐々に気付かされたていく。雨は、私を振り払って、ようやく嬉々として、雨としての音をたてている。降っている雨の中へ、私は進みでる。

  

 私のアパートがある上板橋地区というのは、もともと旧中仙道宿である仲宿付近などと比較して、東武東上線の各駅停車停車駅として他の周辺駅と同じく後発の開発を浴したエリアであるといえる。ランドマークといえば、近くを通る新川越街道(国道254)から上板橋駅南口へ向かう交差点に立つ(「そびえる」と言いうるほどの威風はない)いわゆる「五本けやき」が思い浮かぶ。この「五本けやき」というのは、昭和初期に行われた川越街道のバイパス化にともない、当時ちょうどその拡張対象場所に住所を構えていた上板橋村村長が土地提供を行った際、「邸内のこのけやきを残しておいてくれるなら」との彼の条件のものとに生き残った遺構ともいうべきものだ。私はこの地区に越してきてからざっと8年ほどになるが、本エピソードはこの度これを書くにあたってインターネットで調べ、初めて知った。あ、こんどこの独白録を書くにあたって「五本けやき」についての由来をここに披瀝をしたところで、どうにもなるものではない。このうように、私は今回まとまった文体あるいはまとまった物語というよりは、意識の白濁から逃れるように、恐らく私を含む誰にとってもまったく興味を喚起しないようなこのようなトピックスを書き連ねてしまうことから逃れることが、難しい。

 ともあれ、上板橋である。先日テレビ東京でやっていた「出没!アド街ック天国」にて、愛川欽也の亡きあと(厳密に言えば、最初の数回は愛川欽也扮する宣伝部長の「代理」という体で)新宣言部長のV6イノッチが、「かつて自分は個人的に『雨の上板橋』というタイトルの曲を自作したことがある、というエピソードを披瀝していたことがあったのだが、今日は、その、雨の上板橋である。まず、私は自宅を出ると一旦は先述の強迫神経症的状況から、ふと開放されるように思われる。急転直下、世界は具体性の中で駆動し始め、ヤクルトレディーの快活な挨拶や、活き活きと仕事をする路上自転車監視員など、「朝」を表象するような職能者の姿を路上に発見しながら、自分の身体に、なにやら社会というべきものから放射される具体性のジャブパンチが次々にくりひろげられていく。「朝はグレープフルーツジュースに限る。それも100%果汁のすっぱいやつ。」と、一日の初めにおける心身の起動の仕方をアドバイスしてくれた友人がいるのだが、彼の気持ちがとても良くわかるようだ。強い酸味に味蕾を刺激され、そこから神経を経由しながら個々の細胞が、酸味に叩き起こされてわなないてくるような、あの感覚。個々の細胞が、隣り合う細胞とのずるずるべったりな同一から、鋭い頬打ちをうけたように、個別の細胞として立ち上がっていく感じ(感じ・感覚という言葉を使い過ぎだろうか)。私は朝、家を出て駅へ向かう路上の中で見る、はしたなく開陳された具体性の世界を浴びることにより、精神へ酸味を注入していく。起き抜けの口腔に残る饐えた匂いが、さらなるもっと具体的な酸味によって駆逐されていく。ちなみに、私はこの一連の過程を、一日をはじめるための「メンテナンス」というような即物的な語彙によって表したくないような気持ちがある一方、逆に、そのような後の用い方をすることによってしか、この具体的な駆動の感覚を、表し得ないような気もしている。

 しかし、いずれにせよ、このような「感覚」に対する鳥瞰的態度や視点というのは、これ書くことを決心した時点よりあとから獲得されたものであるかもしれない。なぜなら、普段の書いていない私は、ただ自分から流れ出る主情に隷属していただけだったのだから。(だから、今ではアド街のイノッチのエピソードを引用することも出来るわけだ。)

 

 駅北口にある国際興業バスの停留所では、毎朝60歳かそこらの極端に小柄でやせぎすの男性が、ボロボロに着古した支給品の背服を身に纏い(実際は纏うというより、服の中に埋没しているような印象だ)、駅前広場に闖入しているバスを、形ながらも誘導している。

「ピーイ、ピーイ、ピーイ、ピーイ」。軽々とした笛の音を上げながら、車両を手前へ手前へと誘い込もうと、男性はその右手を、自らが発する笛の音に比して、きわめて弱々しく振る。そのバスの運転手からすれば、男性の動作は物理的な意味では見えていないはずなのであるが、連日の熟練の成果なのか、不思議という他ない謎めいた完璧な同期を見せながら、笛の音にあわせてバスは余裕たっぷりにプールへと導かれていく。 すーい、すーい。一方、始発停留所たる駅前広場に待つ人々は、その様子を、眺めるでもなく、さも当然のように、且つ、なんとなく眺めている。初期のテレビゲームの横スクロールアクション系のソフトウェアで、主人公が、ある一定の場所に立っているにもかかわらず、自動的に外面左辺がずんずん迫ってきて、そのまま右方向へずらされていくような調子で、駅前の風景は、むしろ風景そのものよりもバスの動きが主導するような形で、待ち人達の眼前ですーい、すーいと展開していく。動いてくるバスを待つというより、目の前の画面がバスという長方形の枠組みが視界を侵すことによって、画角がしゅるしゅる変わっていくのをやり過ごすかのように、彼らはぼんやりとバスによって侵される虚空へ眼を遣いつつ、待っている。ようやくバスが停まると、処方箋窓口からいつものように呼び出しを受けた疾患晩期の患者のような非主体的な足取りで、待ち人たちはバスの昇降口目指して歩み始める。私は、その様子を見ると、彼らとともに、バスへ乗って彼らが目指す任意の場所へゆらゆらと、なんとなく、一緒に行ってみたい誘惑に駆られる。おそらくその行き先は、私が思うに、本来的には彼らがいかなくても良い所なのではないか、と思う。行かなくても、どうということのない場所。彼らはおそらく、この上板橋の駅前から、「いかなくても良い所に、わざわざ早起きをして、わざと、行っている。」のではないかしら、という甘美で邪悪な妄想から私は逃れられなくなる。実際は、彼らとて、意味と実際的な合理の絡まりあった世界に生きておることを誰にも言われるまでもなく、自身として深く自覚しており、今日もいつもどおり、彼らの毎日の糧を求めに行っているだけかもしれない(ただいつもの場所へ繰り返し移動しているだけかもしれない)。だけれども、朝の私には、少なくとも私と違う未知のルートをもって身体を移動させている人たちへの憧憬が消えることはないようだ。彼らは、上板橋駅前からどこへ行くことがあるのだろう??しようが無い生活から、別の生活へ?そこまでして何故に人は移動するのか?移動する、とは、「ここ」が不満で「どこか」へいくということなのか?上板橋に住んでいるからこそ、一丁前に「昼間のパパはちょと違う」式に、理想の「どこか」を求めるのか?「どこか」へ行くことによって、皆、上板橋のそれぞれの棲家でで布団をかぶっていた数時間前とは違う自分を探し求めに行っているのだろうか?

 けれども、国際興業バスを駅前で待つ彼らに、僕は話をしたことがない。それが私の誇れるコンプレックスであった。要するに、私は、人をバカにしないことで、その人らを貶めていたのだ。その人を知らないのであるから、私はその人の知り得ぬ「不幸」の糊代を十分に想像できる甘えを担保していた。不遜で申し訳がないが、そう思っていた。

 

 上板橋駅のホームへついた。池袋方面の電車へ乗るには、34番線ホームに並ぶ。

きっとしばらく電車はやってこない。