CDさん太郎 VOL.2 2019/2/10購入盤

 こんばんは。本記事は、<次のレアグルーヴはCDから来る>を標語とする(?)、CD特化のディグ日記シリーズ「CDさん太郎」のVOL.2になります。

初回たる前回、べらべらと序文で文字を連ねすぎたので、早速本題へ移りたいと思います…。(本シリーズ要旨、並びに凡例は第一回目のエントリをご参照ください)

shibasakiyuji.hatenablog.com

 

今回は、2019/2/10に東京新宿界隈で購入したCD群について紹介します。

 

1.

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アーティスト:YUTAKA
タイトル:Brazasia
発売年:1990年
レーベル:国内盤レーベル ビクター音楽産業株式会社、オリジナル GRP RECORDS
入手場所:ブックオフ新宿 東口店
購入価格:200円
寸評:1952年東京生まれ、セルジオ・メンデスに影響を受け音楽活動を開始したYUTAKAこと横倉裕氏が米GRPレコードに吹き込んだブラジリアン・フュージョン作。バンドNOVOでの活動後、単身渡米し78年にソロデビューしていた氏ですが、その後はレコードリリースとは疎遠になりようやっと88年にセカンド作を出して後、その好評の波に乗ってリリースされたのが本作。GRPといえばデイブ・グルーシンとラリー・ローゼンによるレーベルで、フュージョン界における名門。数年前に大規模な国内盤CDリイシューがあり、本作もそのラインナップに選ばれていたのですが(わたしがこの盤の存在を知ったのもその時)、今回購入したのは発売当初にリリースされた旧規格盤です。内容はというと、実はあまり期待せずに買ったのですが(過去何度か本盤をショップで見かけたのですが、スルーしていた)、相当に素晴らしいです…!フュージョンが爛熟しきったあとにリリースされたということもあり、サウンド・プロダクションの微に入り細に入ったクオリティはもちろんのこと、全てYUTAKA本人によるというオリジナル曲の出来映えがっ!特にM1アルバム・タイトル曲の快感よ…。ハイファイでクリアなアッパークラス系サウダージ。本人のボーカルのジェントルで青々しい(この時点で既におじさんですが…)魅力。そして、安易なジャポニズム的記号性に回収されることのない、YUTAKA自身の演奏によるシーケンシャルな琴の響き。ここに<バレアリック>を感じるのはさして難しくないでしょう。他曲もかなり良い。見つけたら迷わず買われることをおすすめします。多分相当に安価で手に入るでしょう。

 

2.

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アーティスト:CLAIRE HAMILL
タイトル:VOICE
発売年:1986年
レーベル:国内盤レーベル PONY CANYON、オリジナル CODA RECORDS
入手場所:ピュアサウンド新宿店
購入価格:108円
寸評:新宿駅東口を出て徒歩2分、路地裏に佇むエロビデオ屋<ピュアサウンド>新宿店の店頭安売りコーナーにて発見。ブックオフが正常値付け傾向にある今、エロビデオ屋の店頭は最後のカストリ・サンクチュアリなのかもしれません。といいつつもまあ、ニューエイジリバイバル華やかりし今にありつつも、このアルバムをオリジナルリリースしているレーベル<CODA>の各作は、どこにいっても基本投げ売り対象になっている印象がありますね。元々72年にアイランドからデビューしていた英フィメールSSW、クレア・ハミルが(アイランド時代、そしてキンクスのレイ・デイヴィス主宰「コンク」からリリースした諸作は英フォーク・ロックの逸品としてどれも相当に素晴らしいです!)、UKニューエイジの先駆的レーベルである前掲の<CODA>からリリースした作品。タイトル通りクレア・ハミルのボーカル多重録音を主体にした作品で、賛美歌やグレゴリオ聖歌などに通じる宗教的なテイストがありつつも、曲によって電子楽器が織り込まれ、低体温的でストイックに展開していく様は、ニューエイジというよりまるで、コクトー・ツインズなど初期<4AD>レーベル作品のようですらあります。ということで、色々な角度から現在再評価できるアルバムだという気がしますね。

 

3.

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アーティスト:作山功二
タイトル:MUSIC FOR DENTISTRY vol.1 YUME
発売年:1990
レーベル:ABER
入手場所:ブックオフ荻窪
購入価格:500円
寸評:相変わらずコツコツと掘っている俗流アンビエント、情報欠乏ということでいえば他ジャンルの比ではなく、購入にあたってはほとんどギャンブルに近い感じなので、家に帰って聞いてみて「アチャー!」ということもままあるんですが、このCDも完全にその部類でした…。タイトル通り歯医者さんの待合室〜治療室での使用を想定されたCDなのですが、タイトルにひっぱられてブライアン・イーノシンセサイザーアンビエントを想定した私が愚かでした。実際は実にピアニック(ピアノ音楽的。おもにマイナー・ペンタトニックスケールを用い、主情的旋律、歌謡的な感傷が伴うことが多い。この形容詞は主に悪口として使っています…)なアコースティック・イージーリスニングで、今の感覚からすると箸にも棒にもかからないものでしたね。ジャド・フェア的なジャケットなどからヘンに期待してしまったのですが…。作者の作山功二氏はアニメ音楽界などでも活動し、どういう訳なのか由美かおるなどが所属する芸能プロダクション「トゥ・フロント」の所属アーティストらしいので、これ以上悪口を言うと僕が消されてしまうかも知れません。歯科医の方で本CDを買い取りたい方募集します。

 

 4.

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アーティスト:Frank Kawai Hewett
タイトル:Makalapua ‘Oe
発売年:不明、オリジナル 1982年
レーベル:Prism Records Hawaii
入手場所:ブックオフ新宿西口店
購入価格:100円
寸評:ハワイアン・フラダンスの普及に尽力し、ここ日本でもその伝道師として30年以上活動を繰り広げるらしいFrank Kawai Hewett氏による82年作…という左記情報はなんとかネットに転がる情報をつなぎ合わせて見えてきたものなのですが、実際その筋(フラ)ではかなりの重鎮らしいです。ハワイ伝統音楽といえば、ライ・クーダーらが啓蒙したギャビー・パヒヌイなどのスラックキーギターミュージックを彷彿とするわけですが、フランク氏の音楽にもいちおうその系譜を強く感じます。けれど、なんというか…どこか拭い難い俗的ニュアンスが溢れ出ており、抹香臭さ〜!おそらくこの中古CD、日本で薫陶を受けた生徒さんのどなたかが売り払ったものなのではないでしょうか?こうしたCDがピカピカの発売時に一般流通に乗ったとは考えづらく。だからこそ、ブックオフをはじめとした中古CDの<墓場>には普通では手に入らないものが手に入ってしまうというスリルがあるんですが…。

 

5.

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アーティスト:大橋節夫
タイトル:ハワイアン・ベスト・アルバム
発売年:1990、オリジナル1985年
レーベル:キングレコード
入手場所:ブックオフ新宿西口店
購入価格:108円
寸評:ハワイ繋がりでもう一作。日本戦後ハワイアンの代表的スティール・ギター奏者「オッパチさん」こと大橋節夫による85年キングレコード吹き込み。戦後直後の第一次ハワイアンブームの立役者ともいえる彼だが、この時期の前にはむしろムード歌手としても活動していたこともあり、本作は久々のスティールギター・インスト作との由。「ハワイアン」が覇権を有した40年代〜50年代の空気を懐かしみながらも、リラックスムードに溢れた気概あるイージーリスニング作という印象(まったく印象に残らないおからこそ、ELMとして素晴らしい)。この匿名的なジャケ、匿名的なタイトル、それらすべてが当時のキングレコードによる牧歌的マーケティングを物語る、要するに中高年向けノスタルジーにまみれた作品なのだけど、こういういかにも<聴きどころのない>ものに無理矢理にでも価値を見出すというのは、甘いユートピア幻想を惹起しながらも非常なディストピアを招致する2010年代末期的ペシミズムが己の中にあるんだろうなー、思う。こういう俗流ハワイアンとアポカリプス的世界観の親和性ってすごくあるよなー…そういうの既に誰かやっていた気がするけど、誰だったけ??と反復&思案していたら今気づいたけど、VIDEOTAPEMUSICですね。

6.

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アーティスト:Don Paris * Ilona Selke
タイトル:The Best of Mind Journey Music 1 & 2
発売年:1993年
レーベル:Living From Vison
入手場所:ブックオフ新宿西口店
購入価格:100円
寸評:これぞガチ実用系ニューエイジ。Don Paris(一瞬、あのイノセンス・ミッションのDon PerisがこんなCDを出していたなんて!と思ったのですが、全くの別人でした)と、Ilona Selkeというヒーラーコンビがカセットでリリースしていた実用メディテーション音源からベストテイク(誰の基準??)を選出したCD。Discogsにも載っていない、ベリー・ディープ(逆に言えばめちゃくちゃに俗的)なCDです。こういうリアルにヒーリング・セミナーの現場で使用されていたであろう音楽がなぜ今極東の国のブックオフで売られているのを考えるのは非常に興味をそそる問題です。おそらくですが…やはりこれも独自の流通ルートを持っていたと考えるのが妥当じゃないでしょうか。日本にフォーマットとして輸入された癒し系自己啓発の現場で使われ、生徒が教材として半強制的に買わされたのかもしれない…とかとか…当時の状況は想像するしかないのですが、内容的には同時期の日本俗流アンビエントにそのまんま通じるようなチージーニューエイジで、実に倒錯的な好感を抱きます。シンセのドローンとアルペジオが適当に寄せては返し寄せては返し、そこにロッキッシュなソリッド楽器が参画。初期vaporwave作品が参照したチージーニューエイジ・テイストというのは、こういったものだったのかな。

 

7.

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アーティスト:SHADOWFAX
タイトル:THE DREAMS OF CHILDREN
発売年:1986年、オリジナル1984
レーベル:国内盤レーベル Canyon Records、オリジナル Windham Hill Records
入手場所:ブックオフ新宿西口店
購入価格:100円
寸評:またしてもニューエイジで恐れ入ります。しかも名門Windam Hill作品。Windam Hillといえば、世界中を巻き込んで(特に日本を巻き込んで)旋風を呼び、オーナーのウィリアム・アッカーマンはじめ、ジョージ・ウィンストンなどによる大ヒット作を多く抱える名門ですが、これまで、その市況的価値におけるバカにされぶりも相当なものでした。すくなくともこの数年前までは。しかしながら、ニューエイジリバイバルやらネオ・クラシカルの興隆でその真価が再発見されると(それはまだ途上としか言えないけれど…)、ようやっと批評的言語で語られるようになりはじめたと感じます。今までは主に日本人ユニットである<インテリア>にばかりその言説が集中しているきらいがありましたが、カタログ中でも、ようやっと非アコースティックな作品に正当な陽の目が当たり始めている気がします。その中でも、このシャドウファックスは、親しみやすいポップ性などからして、今にも再評価されそうな予感がありますね…。構築的バンドサウンドと闊達なシンセサイザーの合流。そして電子リード楽器の実に<時代がかった>味わい。この3rdアルバムでは、特にM2が素晴らしい。私の2018年ベスト作の一枚、Arp『Zebra』に通じるチェンバー・ニューエイジ。他にも両曲沢山あり。ちなみにジャケット絵は『南回帰線』『北回帰線』のヘンリー・ミラーによるものらしい。

 

第三回に続きます…。 

CDさん太郎 VOL.1 2019/2/9

 相変わらずCDを買っています。今さら。いや、今だからこそ。

 サブスクリプション配信サービスの定着期を経て、ヴァイナル復権も定着した昨今、かねてより喧伝されているように、CDという存在は既にその役目を終えつつあるものとして見做されています。かくいう私も、以前よりも新譜をCDで買うということは頻繁ではなくなりましたし、かつてはあんなにも熱心に集めていた中古CDへとんと興味を失った時期もありました。

 さらに、2016年の初頭には、久々の引越しという個人的な状況も重なって、所持しているものの内たぶん1/5位に及ぶおよそ4,000枚ほどのCDを売却処分をしたりしたのでした。「どうせサブスクで聞けるでしょ」というのと「何かを所有する」ということへの疲れ(往々にしてものを集めてきた人は30代を中心にそういう倦みを経るらしいですが…)から、ぐわっと処分してしまったのですが、案の定、今になって後悔していたりします。それは、「あの資料が無い!どうしよう! 」といったようなリアリスティックな困難がそう思わせるものでもありながら、何よりもまず「あ、CDって…やっぱり好き…だったんだな」っていうことが、今CDが滅びそうになっているからこそ再帰的に湧き上がってきているということからくるのかもしれません。そういう感慨って反動的なものだとされるかもしれないけど(実際自分でもそう思うこともあるけど)、昨今のアナログブームだってもとはそういう再帰的な渇きのエモーションからきていることは自明だし、いつCDにそういうモードが訪れてもおかしくないとも思っています…。

 まあ、CDというものが単なる旧式の記録メディアとして見做されつつある今、そこへわざわざフェティッシュを見るという意味においては、古色蒼然としたサブカル的B級趣味の幻影を再び喚起してしまうかもしれないことも承知しています。しかし、もしそれだけだとしたら、僕はむしろCDなど触りたくもないし、なんとなればそこに格納されている音楽すら聴きたくもないのだけど、めちゃくちゃワクワクさせてくれる(?)ことに、昔にリリースされ今やその存在すら忘れられてしまったようなCD作品でしか触れることのない音楽がまだまだ世に中には大量に存在することも事実なのです。

 かつて、レアなヴァイナル作を指して「未CD化作品」という言い方があったのですが(懐かしい…)、今となっては、「未サブスク配信」、もっと敷衍していえば、YouTubeなど含めたネット空間で試聴することすら、あるいはその概要すら不明な「ネットにあたっても情報不明」なものが沢山あって、それらが今後もしかしたら独特の価値を形成していく可能性を感じたりしているのです。「次のレア・グルーヴはCDからくる」。そうなのです、というかおそらく、そうであるしかないと思っています。今や、一番ディープな<未知>はネット空間以外(=あの頃のCD)にあるのだから。

 ネットを徘徊する先駆的ディガー達が、そこ(ネット空間)に飽和を嗅ぎ取ったら、じねんとネットの外側(=フィジカルメディア、あるいはそれらが捨て置かれているショップ)を探索するようになるしかないし、実際今そういう動きが起きていることは、至るところで語られ始めていることでもあります。(Vaporwave的価値転倒以降のディグしかり、light mellow部しかり、手前味噌ながら俗流アンビエントしかり…)

 そんな中、今実際に同時多発的に起こりつつ有る「CDのディグ」を、既存メディアに倣った習熟的筆致によるレビューというカタチでなく、もっと未整理のまま乱脈的なままに、ディグのその瞬間、その場、<CDを買う>という体験の埒の無いドキュメント性を、雑多にネット空間へひたすら置いていく、そういうものがあったら面白いのではないかと(少なくとも自分にとっては)思っているのです。その非洗練とブリコラージュ性、そしてあるいは、聴取というものに意味が付与される前の、タイニー且つ鉄火場的リスナー空間。CDを買って自宅に帰り、プレイヤーに載せて、プレイする、あの連続的で、<音楽ソフト>という存在に個人的時間を侵食される感覚…。そういったものが、時に駄菓子のような値段で棄て売られているCDを今買うことで、むしろ瑞々しく立ち上がること。ほんの少しでもいいので、それらを描き出し、そういうのが好きな方々にご笑覧いただければ良いなと思っています。あわよくばみなさんもCDを掘られますことを。

 前置きが長くなりすぎました。

 第一回目は本日2019/2/9に無目的に買ったCDから行きましょう。

 

※凡例として

・ジャケット写真、アーティスト名、タイトル、発売年、レーベル、入手場所(場合によってはシチュエーションも)、購入価格を記載の上、寸評を書いていきます。

・アナログ盤もDAISUKIなのでもちろんよく買うんですが、ここでは上述の意図通り、CDに特化します。

・少なくとも一度は耳を通した状態で書いていこうと思うので、購入記録としてリアルタイムに更新することが難しい場合もあり、紹介CDが購入の時系列と前後するかもしれません。

・主に新譜はサブスクリプション配信やLP購入で鑑賞する癖がついてしまったので、おそらくこのシリーズにはほとんど登場しません。

・作品レビューではなく記録的性質が大きいので、情報下調べなど甘い部分が出てくるかもしれません。誤記載など、忌憚なく指摘いただければ幸いです。

 

1.

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アーティスト:Steven Halpern & Dallas Smith

タイトル:Threshold

発売年:1987年(オリジナル1984年)

レーベル:国内盤レーベルPONY CANYON、オリジナルHalpern Sounds

入手場所:ブックオフ吉祥寺店

購入価格:400円

寸評:米の哲学博士兼マルチ音楽家、Steven Halpernは、70年代半ばから尋常でない数(誇張じゃなくてJandekの如し。ちなみに75年リリースの初期作「Spectrum Suite」は一般向け音楽療法作品の先駆け的名盤として名高い)の作品をリリースしており、見つけるたびにダラダラと買ってしまうのですが、米ニューエイジ的抹香臭さと、シリアスな電子音楽の折衷という感じで、どれも素晴らしくて。これはフルート奏者Dallas Smithとの共演盤で、氏の作品の中でもかなりクオリティの高いものの一つだと思います。シンセシストとしてより音楽療法実践家としての評価がせり出ている感のあるSteven Halpernですが、純粋に鑑賞音楽としてもとても好ましい米版俗流アンビエントかと思います。後期タンジェリンドリームやクラウス・シュルツェ的ジャーマンプログレ感もあり、なかなかの一作。今これを書きながら聞いてますが、いい意味でまったく耳に入ってきません。こういうものが国内盤発売されていた時代、それが80年代後半というもの。

 

2.

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アーティスト:V.A.

タイトル:Electronic Toys (A Retrospective Of 70's Synthesizer Music)

発売年:1996年

レーベル:Q.D.K. Media 

入手場所:ディスクユニオン吉祥寺店

購入価格:480円

寸評:これは嬉しい!70年代ヨーロッパのライブラリー系レーベルに残されたシンセサイザーを駆使した背景音楽を、モンドミュージックリバイバル以降にコンパイルした作品。お色気ジャケもいかにも90年代からみた「あの時代」的質感。Dave Vorhaus(White Noiseのあの人)やRon Geesinなどのロックファンにも名前の通った作家から、ほとんど無名の方々まで、キッチュかつスペーシーなチューンをコンパイル。Q.D.K. Media は、ドイツの再発レーベルで、ポップとアヴァンの間を行くような作品を多くリイシューしています。これはまさに、昨年翻訳され話題になった、マーク・ブレンド著、オノサトル訳『未来の〈サウンド〉が聞こえる 電子楽器に夢を託したパイオニアたち』や、名著『エレベーター・ミュージック』に通じる世界ですね。それにしても、一言でライブラリーといってもかなり多様で(あたりまえなのだけど)、シリアスなものから、コミカルなもの、浮遊感溢れるシンセポップまでかなり多岐にわたる。そういった各曲がはいっているオリジナル・アルバムがCDでストレートリイシューされることはまあ稀なので、こういうコンピに頼るしかない状況もあるんですが…。

 

3.

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アーティスト:V.A.

タイトル:デモテープ1

発売年:1991年(オリジナル1986年)

レーベル:MIDI

入手場所:ディスクユニオン吉祥寺店

購入価格:480円

寸評:言わずとしれた、82〜85年にかけて(その後散発的に復活)坂本龍一がナビゲートを努めていたNHK-FMサウンド・ストリート」に投稿された素人の方々のデモ音源の中から、優秀なものをコンパイルした盤。プロデュースは坂本龍一矢野顕子。この盤が著名なのは、アマチュア時代の槇原敬之テイ・トウワの音源が収録されていることからでしょうね。実際、この二人の作品クオリティは明らかに抜きん出いる…。他色々な方々が、ローファイポップ、RCサクセション風、インディーテクノポップ等に挑戦しており、MIDI普及期の直前YMOブレイク後の日本初期宅録風景を捉えたものとして貴重。これはYMOファンなどにとっても有名な盤なのですが、普段V.A.コーナーを漁らないので、その存在を近年知ったのでした。以前、長野まで車でドライブしていた際、助手席に乗っていた友人の新間君がかけてくれて、それ以来いつか買いたいなと思っていたものを今日やっと…。

 

4.

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アーティスト:尾島由郎

タイトル:ハンサム

発売年:1993年

レーベル:Newsic

入手場所:ディスクユニオン吉祥寺店

購入価格:480円

寸評:これは今日一番の、というか今年に入って一番のラッキーアイテムかも。ジャパニーズアンビエント再評価が花盛りであることはもはや既知のことかとおもうのですが、この尾島由郎氏の作品への国内外から最注目もすごいものがあって。LP含め、ほとんどプレ値以下での入手を諦めているのが現状なのですが、こんな値段で転がっているなんてー!しかもブックオフとかじゃなくて、ディスクユニオンで。ありがとうございます…!ちなみにDiscogsの参考価格は1万円弱ですね(まあ、サブスクでも聞けるのですけども)。内容としては氏の作品の中でもかなりヘン、悪くいえばとっちらかってる感じなのですが、それはゲスト参加陣の多様さによるものでもあって、コシミハル (voice) , 柴野さつき (piano & voice) , 周防義和 (guitar)中野テルヲ (synthesizer & sampling) , 菊地純子 (dance step) , パトリス・ジュリアン (voice) 他というメンバーが立ち代わり各曲に登場する形です。冒頭、いきなり時代がかったテクノがおっぱじぱってしまい相当面食らうのですが、アルバムが進むに連れて尾島氏ならではの深〜いアンビエント世界が現出。特にコシミハルの語りを伴う曲の素晴らしさよ…。これ書きながら一度寝落ちしました。

 

5.

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アーティスト:長山洋子

タイトル:オンディーヌ

発売年:1987年

レーベル:ビクター音楽産業株式会社

入手場所:ディスクユニオン吉祥寺店

購入価格:480円

寸評:現在は演歌歌手として活動する長山洋子がアイドル時代にリリースした3rdアルバム。88年の『F1』がシティ・ポップ名盤として有名(昨年のレココレのシティ・ポップ特集でも枠を与えられていたし、light mellow部のブログでも取り上げられていたような記憶が)な彼女ですが、これはどうなんだろうなーと思いながら購入。はっきりいって、シティ・ポップとしては若干肩透かし感もあるのですが…むしろシンセポップ歌謡ととらえるとなかなかの名作では(実際シンセのサウンドはかなり上質)!?作・編家陣も松岡直也西平彰武部聡志という一瞬メロウを期待させる感じなのですが、あんましそういうサウンドじゃないですね。私は大のフリートウッド・マック・ファンなので、「ビッグ・ラヴ」のカヴァーが小嬉しい。M5「マザーズボーイ Wow Wow」は同時期のマドンナ的フィールあるな、とおもったら、M6では実際に「ラ・イスラ・ボニータ」を地味カヴァー。M10「アリス」は後もう少しでバレアリックになりそうな寸止め感のあるトラック。タイムスリップして「もっと大胆に!」とサウンドディレクションしたい。この前後の彼女のアルバムはユーロビート調らしく、本作は「落ち着いた」作風なのだそう。一旦アダルト路線にチャレンジしたけど、やっぱりバブル的ハイエナジーサウンドへ回帰したという物語。

 

次回へ続きます…。 

 

 

〜ドリームド・ポップ〜 音楽<再評価>の昨今 竹内まりや「Plastic Love」によせて

 例えば、60年代末から70年代初頭にかけてリリースされた、<オルガン・ジャズ>の大量のカット盤。例えば、当時は無名に終わったファンク/ソウル・アクトによる知られざる唯一作。そういった埋もれた音楽に日の光を当てたのは、そこから様々なドラム・ブレイクを選り探した初期ハウスやヒップホップのDJ達であり、より本格的には何より80年代後半から勃興した<レア・グルーヴ>の推進者達だった。

 

 思えば、レコード産業の黎明期から、ポピュラー音楽の推進エネルギーというのは常に、<新しいもの>を追い求めることであり、同時に<古きもの>を温めることでもあった。エルヴィス・プレスリーが古いゴスペル・ソングやヒルビリーから霊感を得ていたこともそうだし、もっとわかり良い例でいうと、60年代初頭にUKの若者たちが、米国産の初期ロックンロールや旧いブルーズをリバイバルさせたこともそうだった。自らの外側(ここでは米国)から到来し、それによって参照すべき音楽の歴史と地図、そして自己との距離感覚を表現者たちが内在化していったその<ブリティッシュ・ビート>というムーブメントは、ポピュラー音楽史上稀に見る規模で立ち上がった<再評価>や<リバイバル>と捉えることもできる。

 これは、アイデンティティを異にする<他者集団>との出会いを契機とすることで、自らの拠って立つところを再認識し、更にはそこから歴史意識が立ち上がっていくという運動の一つの現われでもあるかもしれない。だから、何かを<再評価>するといことは、そうやって<他者>との出会いを契機にして、反芻的に過去の輝きを発見するという運動という一面もあるのではないだろうか。

 

 さて、冒頭のようなレア・グルーヴなどの再評価ムーブメントを通り過ぎてきた後、私達には巨大なもう一つの世界、インターネットが与えられた。このインターネットというものは、様々な他者との出会いを可能にしてくれたし、高速に大量の情報へのアクセスすることを可能にしてくれた。一方で、溢れ出る他者の群れと、そこで飛び交う大量の情報は、時に私達を疲弊させもしてきた。こうした<他者の飽和>は、ポピュラー音楽においても、それまでの単線的なポップ史観(ジョン・レノンマイケル・ジャクソンなどを生み出してきた、ヘゲモニーとしての<スター神話>を駆動してきたもの)を日々攻撃し続けてきたのだった(カート・コバーンの逝去とワールド・ワイド・ウェブの興隆がほぼ同時期であったということは、語るのが躊躇われるほどわかりやすい事実だ)。

 その代わりに現れたのは、他者同士が個別に価値を提示し合うようでいて、その実は価値を相殺し合う、全体としては<ポップ>を一方向的に推進する力の衰微という状況だった。<新しさ>を推進してきたエンジン(価値体系)は、その歯車へ油を差されないままになってしまった。「否、<新しさ>はまだ死んでいない」という議論も勿論成り立つであろうが、それまで覇権を保ってきた<新しさの絶対性>は今、ありうる選択的な価値の一つに引き据えられてしまったのだった。そういった中、今あらゆるところで観察されるのが、これまで馴染みのなかった形の<再評価>である。

 

 インターネットが持つアーカイブとしての性質は、今世界中でYouTubeに投稿されている音楽ファイルの無尽蔵な数を考えると、もはやそれを統御する人格を(googleというグローバル企業が物理的には管理を担いながらも)想像することすら困難になっている。この広大な動画の宇宙にあって、かろうじて物語線を引きうるのは、誰か属人的な意味における管理者ではなく、AIとそれによるアルゴリズムであるという事実は、それまでの<再評価>運動においてお馴染みだった<ディグ>という活動の正統性を相対化してしまったかのようだ。なにがしかの情報に<能動的に>アクセスすることで、レア盤を求めネット空間を<クエスト>していくという喜び。そこにはルールがあり、流儀があり、攻略法があった。欲しいあのレコードを手に入れるために、あのサイトで情報を収集して、あのディーラーとやりとりをして、というように。もちろんそうしたサイクルが今も閉じているわけではないが、今起こりつつある新しい<再評価>のフィールドにおいては、取りうる手段の一つになってしまった。

 今起きている<再評価>は、より脱文脈的になってきている。なぜなら、ある特定のジャンルについての見識、歴史的見取り、(もっと即物的な次元で言えば、その盤の価格相場など)を蓄積していくことが<再評価>のプレイヤーになるためのメンバーシップだったのに対して、今ではそういった蓄積を介することなく、<AIに仕組まれた偶然>の出会い(SpotifyYouTubeに仕込まれたアルゴリズムがレコメンドしてくる<未知>のものとの出会い)によって軽々と、自らの趣向にフィットしつつも、それまでまったく知り得なかったものが浴びせかけらるようになっているからだ。それを<発見>するには、自らが培養してきた嗅覚・見識も不要だ。ただ繰り返し自らの<好み>をスキャンさせるだけでいい(お気に入りの動画を繰り返し見る、などを通して)。

 

 さて、竹内まりやが84年にリリースしたアルバム『VARIETY』に収録されている「Plastic Love」のYouTube動画(*1)は、そうした新しい<再評価>の現象を象徴する存在だ(った)と言えるだろう。

 それまでの2年半の沈黙を破り、彼女がいよいよ<大人のアーティスト>へと変貌を遂げたとされる『VARIETY』は、全てを自らが手掛けたソングライティングの充実と、山下達郎の全編プロデュースによる鉄壁のサウンドも伴い、予てよりファンの間ではマスターピースとして知られていた。その中でも絶品のミディアム・ファンク「Plastic Love」は特に人気の高い曲だった(85年には「Extended Club Mix」として12inchがカットされている)。とはいえども、その人気というのはあくまで日本国内の既存ファンの範囲内においてであった。

 しかし、この「Plastic Love」が、2017年にある国外ユーザーによってYouTubeに投稿され、1年ほどを経るとまたたく間に世界中で2,000万回以上という驚異的な再生数に達していた(削除直前では2400万再生に達した)。竹内まりやがキュートな笑顔を投げかけるそのサムネイル画像(元は7icnhシングル「Sweetest Music」に使用されていたポートレイトなのだが)が、やたらめっぽうオートプレイの「次の動画」欄に表示されるのを記憶している読者の方も多いのではないだろうか(それくらい多数再生されているからサジェストされるのか、あるいはそれくらいアルゴリズムがサジェストしてくるから再生数が膨らんだのかを判別するのは困難なように思われるが、実態としてはその両方がインフレーション的状況を招いたとするのが適当だろう)。

 これは、多くのユーザーによる楽曲への純粋な評価・興味ということに加え、勿論ネット発のVaporwave〜Future funkのムーブメントとも濃密に連動しており、<元ネタ>であるジャパニーズ・シティ・ポップへの関心と再評価を象徴する現象ともされる。これまで「Plastic Love」は様々な記事で言及されたり、あるいはカヴァーされたり、ミックスされたり、そのサムネイル・ビジュアルを改変した画像が流通するなど、まさにインターネット・ミームというべき拡がりを見せたのだった(*2)。コメント欄は、ほとんどが日本国外からのもので埋め尽くされ、極東の<未知>のポップ・シンガーによる逸曲を称賛するものが占めた。

 

 このように、それまでドメスティックな範囲を中心としたプロモーションや販路戦略しか行わず、著しく国外での認知度が低かった日本のポップス(とくに70年代〜80年代の所謂<シティ・ポップ>)は、YouTubeを介した再評価ムーブメントにおいてその恩恵を最も享受したものの一つであるだろう。裏を返すならそれは、ドメスティックな音楽が世界中に浸透していく可能性を示すものでもあったのだった。しかも、このシティ・ポップというものは、Vaporwaveが初期からその思想に胚胎していたような、<未体験>たる過去・未来を懐かしむという屈折的なノスタルジアと非常に相性が良かった。なぜなら、世界中の(当の日本人を含めた)ミレニアル世代は、この極東の国が経済的に光り輝いていたバブルの時代を知らないし、その未来への楽観を、享受はおろか、リアリスティックなものとして想像することすらできないのだから。だからこそ「Plastic Love」は、インターネットの向こう側からやってきた、<かつて誰か(=他者)が夢見た失われた音楽>として、それまでこの楽曲を知らぬ者の間で、ふてぶてしいミームとなっていったのだ。ノスタルジアは、追体験できないからこそその効力を増すのだとしたら、他者が描いた夢にこそ、あなたはそれを痛切に感じないわけにはいかない。

  

 昨今の<再評価>は、かつて他者との出会いによって駆動されてきた歴史性の内在化という地平を超え出て、今や、他者がかつて描いた夢との邂逅を通して脱文脈的に繰り広げられている。ハイパー・モダンなネット空間の中でAIのアルゴリズムが呉れてよこした<偶然>と、それに伴う特定の表徴のミーム化、そしてノスタルジアの加速度的な共有によって、かつて誰かが描いた夢が投影されたポピュラー音楽=<ドリームド・ポップ>の復権が、大規模に起こっている。

 今後も、本稿に示した視点から、今観察される新しい<再評価>について、様々なジャンルや具体的作品、アーティスト名を交えながら考えていきたい。

 

 

(*1) 残念ながら当該動画は、昨年12月末、著作権侵害の申立てにより削除されてしまった。その時インターネット上ではちょっとした<追悼>騒ぎになった。現在では、他アカウントからいくつかのヴァリエーションがアップされている状況。これらの中にはアップ後1ヶ月足らずで100万回再生を超えるものもあり、その動画概要欄にはアップ主によってただ一言「Do not delete…」と書かれている。

 

 

(*2) 数ある「Plastic Love」現象考証の中でも特に秀逸なのが、昨年7月にYouTuber、Stevemによってアップされた「What is Plastic Love?」という動画だ。<あの時代>の日本をザッピングしたウキウキするビジュアルを配しながら、同曲の認知拡大の大きな転機となったReditt上のスレッドなどにも触れ、丁寧に解説している。

 

  また、つい先頃、こうした「Plastic Love」を巡る物語の中で一つのクライマックスとも言うべき事件(?)が起きた。tofubeatsによる同曲のカヴァーがデジタル・リリースされたのだ。実は2012年にも同曲カヴァーをBandcamp上にアップしていたという彼だが、一連の「Plastic Love」バブルを経てから改めてリリースされた今回のver.は、オリジナルへリスペクトを捧げつつも今様のDTMイズムがふんだんに詰め込まれており、どこかナイーブなそのテクスチャは、YouTubeアルゴリズム文化への返礼でありエレジーにも聞こえる。

<ニュー・エイジ>復権とは一体なんなのか 2

 本稿は、昨今巻き起こっている<ニュー・エイジ>復権についての論考第二弾である。前回の記事では、ミシェル・ウエルベックによる長編小説『素粒子』のエピローグにおける著述を参照しながら、現代の状況に呼応する(と思われる)その現象面と社会に内在しいるであろうその動機について論じたわけであるが、今回は更に立ち入って、一体、ポストモダン以降の現況においてどういったエートスがそのリヴァイヴァルを駆動しているのかといったことについて考えてみたい。

 

 そもそも、<ニュー・エイジ>とは、1960年代に西欧先進諸国において勃興した、既存の社会システムやそれが長らく引き連れてきた伝統的宗教観(主にプロテスタンティズム)への批判的視座の実践という側面がある。これは、いわゆる<ファースト・サマー・オブ・ラブ>を最初の起点として、いわゆるカウンター・カルチャーの内部から沸き起こってきた運動であり、既存宗教が結句のところは近代以降の西欧文明に顕現した資本主義体制と両手を携えながら進んできたことに対するベビーブーマー世代から異議申し立てであり、精神世界を今一度経済圏から不可侵たる<自由の領域>のものとして開放しようとする運動でもあった。

 そしてこの運動は、志としては上記のような思想が胚胎していたにも関わらず、その後の歴史がすでに明確に示している通り、様々なセクトを(逆説的に)生み出したり、あるいは非常に痛恨なことに、<スピリチュアル>という語例のもと、文化表象としての宗教文化を批判的に再考するという分化傾向・姿形を目指すという本来の性格を、その発展自体が凌駕していってしまうというダイナミズムに堕ちて行ってしまったのだった。

 今になって思うに、そもそもそういった被文化収奪的な脆弱性こそが<ニュー・エイジ>の抱える本質に近しいものであるとは思うのだが、本来は既存宗教文化から逸脱する(既存宗教文化への嫌悪ともいってよい)よるべない個人救済の欲求を<スピリチュアリズム>の固有化によって顕現しようとするものでもあった。しかしながら、60年代から生まれ育った<カウンター・カルチャー>は、いかにも俗流的な脱構築の手付きがその落ち度を象徴するように、そういった資本主義文化圏における新規(と、たまさか見做された)の言説の恐ろしいまでの被コード性・解消性の迅速さについてまったく鈍感であったために、またたく間に<ニュー・エイジ>を新たな産業として安々と鎮座させてしまったのだった。

 このことは、ベビーブーマー世代にあっては本来であれば寝耳に水のようなものであったろうと思うが、しかし皮肉なことには、ヒッピー→ヤッピーという推移が象徴的なように、むしろ自らが推進してきた劣化(=資本主義リアリズムの顕現としての、カウンターカルチャー俗流化)の純粋かつ摩擦のない移行でもあった。本来<ニュー・エイジ>は、精神分析学的に述べるならば、ベビーブーマー世代が称揚した<個人主義>の無意識レベルでの忘却であったかもしれないし、もっと大きくとらえるなら無意識レベルでの贖罪でもあったのだろう。西欧文明の内奥から発現しながらも、それへの倫理的な反駁として、菜食主義を実践し、カラーセラピーを行い、ヨーガを習得し、ニュー・エイジ音楽を聴き悦境に至るなどを志向しながらも、結句それが体よく産業化してきたこと、等々…。

 

 さて、ここまでが前段的議論である(次回以降の論考ではこのところは省かせてもらうはずだ)。その上でなぜ、そうした<ヒッピーの贖罪>であるところの<ニュー・エイジ>が今、この2010年代末にかけてふてぶてしく復権しているのかを見るのがこの連続論考の狙いであるわけだが、前提的議論は上記と合わせて前回のエントリーをお読みいただくとして、今回は、更なる議論に踏み込んでみたい。

 今、起きている<ニュー・エイジ>復権の特徴として強く挙げたいのは、むしろ上述のようなベビーブーマー個人主義や開放の時代のエートスが持つ副作用(それは<ニュー・エイジ>自体へも矛先を向けていたはずだ)の<アン・ヒップ>さを、<インディー>、<DIY>、もっと敷衍的にいうなら<オルタナティブ>を信望してきたであろうベビーブーム・チルドレン世代、あるいはポスト・ベビーブーム・チルドレン世代がどうやら率先して牽引してしまっているうように見える事実だろう。これは、歴史上はじめてのデジタル・ネイティブ世代であるベビーブームチルドレン世代、あるいはポスト・ベビーブーム・チルドレン世代のエートスと、現在先進諸国において出来している各思想地図とは切ってもきれないものと考えたい。昨今、現代思潮の重要局面として喧伝される<思弁的実在論>しかり、<オブジェクト指向実在論>しかり、それらが題目とするのは、ポストモダンにおける意味の価値乱立(=有意味的無意味性)の超克であったり、身体性への嫌疑、あるいは唯物論的世界把握のドラスティックな更新であったりするのだろうが、このことに現在の<ニュー・エイジ>復権の趨勢を当てはめてみたいのである(というか、当てはめないわけにはいかない)。

 アトムとしての個人と、その個人<性>を称揚し、それらの称揚の綾として社会を思い描くという(牧歌的解釈としての)<リベラル>が、ことほどまでに苦渋を舐めている昨今にあって、果たして我々世代(と思い切っていってしまおう)の誰が、(軽度のものだとしても)絶望を味あわない訳があろうか。公共哲学や熟議民主主義という、漸次的解法が示されたのも今や昔に遡らなければならない中で、あらたな思潮として<非人間>の分野を論じようとする思想それぞれが、全体主義からの蠱惑に耐え続けているように見えながらも、その実としては<オルタナ右翼>にあからさまな程に顕著なように、<オルタナ側からのオルタナの否定>によってその足元が侵食されつつあるように見える今、明晰な時代精神の診断を<時間をかけて=熟議>して、あるいはしようとすること自体が被加速的に追い抜かれてしまっていることは、多くの<良心的な>人々に非常な憂鬱を呼び込んでいる。

 さて、ではその憂鬱を解毒するには一体何が特効薬なのかといえば、当然のごとく効能目覚ましい対処法は今の所どうやら封じられてしまっている(ように見える)。せいぜいが<資本主義リアリズム>といったような現状分析のあたらしいツールを手にして、その定規を様々な場面であてがってみて正気を保とうとしたり、あるいは(自覚的な素振りを見せながら)露悪的な態度でもって物事を睥睨しようとするくらいなものである(重ねっていうまでもなく、こうした態度と<オルタナ右翼>を隔てるカーテンは極めて薄い)。

 

 こうした中、どうやら<ニュー・エイジ>が、そうした懊悩を軽微なものにしてくれる、あるいは鈍麻させてくれるオピウムとして機能し始めているのではないかというのが、本シリーズで論じたいところなのである。ほら、おそらく今読者諸氏は、<そんなことは既に自明なのではないか?>と思ったのではないだろうか? そう、このソフトリーな寄り添いこそが<ニュー・エイジ>復権の(非人格的な)戦略であり、巧みさなのである。

 アトムとしての個を称揚する(伝統的、同時にオルタナティブな意味での)<個人主義>の耐用年数と耐用負荷がどうやら飽和点を迎えようとしている今、その苦々しさからの逃避として<個人の>スピリチュアリズムとし予て発明された<ニュー・エイジ>の舟に再び搭乗してみること、それは、その搭乗の滑稽さを発見した<ニュー・エイジ>復権初期の皮肉屋達(音楽分野で言えば活動初期のOPNことジェイムズ・ロパティンやヴェクトロイドなどvaporwaveの先駆者達にあたるだろう)にとっては、揶揄と諧謔の混合した美しき自嘲であったかもしれないが、今やその舟は、登場人物の誰もが予想していなかったほどに大型化し、何気なくも堅牢になりつつある。

 我々が<ニュー・エイジ>復権を云々する時、そうした初期の批判的視点を忘れてしまってはいけないのではないかという脅迫感は、却ってその反転形として、そこへの没入を更に促すような蠱惑をも(極めてソフトリーかつ強靭に)同時に召喚してしまうのだ。はじめは露悪的振る舞いのつもりが常用化する薬物に似て。この段においては(今まさに我々はその段に居るというのが私の見取りだが)、諧謔はその毒を抜かれ、ひたすらにそこに残された耽美性がいきいきと復活しつつある。怖いほどに美しく。

 相対化の帰結として過去の亡霊が美しげに蘇ってくるという単純な見取りを超えた何か、それへと呼応する特質を、ニュー・エイジは元来的に備えてしまっている。なぜなら<ニュー・エイジ>というのは、そも脱集団化への試みであると同時に集団性への憧憬を棄てきれていなかったし、伝統宗教の否定という神秘性の相対化を志向しながらも個人が弄べる霊性(=脱身体性)としてのスピリチュアリティという性格を備えていたし、何よりも脱資本主義的な経済倫理を志向しながらも、資本主義リアリズムのもっとも異形な顕現としての性格がはじめから備わっていなものなのだから。

 今、誰もが追い求めてやまない<これではないなにか>は、<ニュー・エイジ>という卑近な<彼方>から召喚されつつある。

 

追記:

次回は昨年公開の米ホラー映画『へレディタリー / 継承』を参照しながら、<ポストモダン以降のオカルティズム>と<ニュー・エイジ>復権を論じたいと思います。

 

<ニューエイジ>復権とは一体なんなのか

ミシェル・ウエルベック出世作となった長編小説『素粒子』のエピローグ。20世紀から21世紀へとミレニアムが移行する只中、20世紀の量子力学によって切り開かれた成果をもって分子生物学を不可逆的に発展せしめた主人公(の一人)ミシェル・ジェルジンスキの偉業を彼の死後正当に評価したことで、その後の生命倫理パラダイム転換に大きな寄与をしたとされる科学者フレデリック・ハブゼジャックの仕事を、更に後年の科学史家が論評しているという入り組んだ話法を取るこの最終章こそは、この小説の持つ汎歴史的且つ同時に脱歴史的ともいえる稀有なダイナミズムを最も顕著な形で伝える部分であろう。

その中に、20世紀後半にかけて興隆を見せたニューエイジ運動について言及する、興味深いテキストがある。曰く……

 

(前略)ハブゼジャックの真の天才的側面とは、問題のありかを見抜く信じがたいほど的確な眼力によって、二十世紀末に<ニューエイジ>の名で登場した折衷的で混乱したイデオロギーを自説のために転用することができた点にある。彼は同時代人で初めて、たとえそれが時代遅れで矛盾した、馬鹿げた迷信のかたまりと思われようとも、<ニューエイジ>は心理的存在論的・社会的な崩壊から生じた本当の苦しみに対応しているのであることを見て取った。原始的経済やら、伝統的な「聖なる」思想への愛情やらといった、ヒッピー運動やエスリンの思想の系譜から受け継いだおぞましい混ざり物を超えて、ニューエイジは二十世紀およびその反道徳主義、個人主義、自由開放を叫ぶ反社会的側面と手を切ろうとする本来の意志の表れであった。それはいかなる社会であれ、何らかの宗教による統合なしには持続しえないという苦悩に満ちた思いを物語っていた。実際のところ、そこにはパラダイム変革への力強い呼びかけがあったのである。(*1)

 

 さて、今現実の2018年、<ニューエイジ>にまつわって何が起きているのかと言うと、恐ろしいほどにこれと似通ったことなのではないだろうか。というのも、少なくとも10年ほど前までは<ニューエイジ>というのは、冷ややかに眼差され、唾棄され、揶揄されるニューレフト運動の残り滓が沈殿した芥として、もはやパロディーの世界にしか息をし得ない歴史的廃棄物とみなされてきた。それが出来してきた70年代と全盛を迎えた80年代を経て、<ニューエイジ>というのは産業としては煌々たる存在感を示しながらも、その耐え難い俗流性や<抹香臭さ>から、<クール>な文化圏からは忌み嫌われ続けてきた。

 ところがである。ご存知の通り今、<ニューエイジ>は当の<ニューエイジ>自身も全く予想だにしていなかったことに、クールなものとしてカルチャーの前線に躍り出てくることになった。

この現象については、これまでも様々な言説が投げかけられ、vaporwave以降の諧謔的批評性がこれを逆転的に評価しただの、高度資本主義社会における(得るべくもない)自己実現の(打ち捨てられた)雛形として、その純粋な異形性が脚光を浴びている等々…様々な理論武装を惹き付けるトピックにもなっている…のであるが、私の思うところ、上記のウエルベックの文章は、これが2200年という時点に書かれたという話法設定も含めて、昨今のリバイバルと通底する<ニューエイジ>復権の精髄があぶり出されていると思うのだ。

 

 かつて夢見られていた<ユートピア>が、20世紀の100年と21世紀の18年を通して、その実現可能性よりも夢想性に回収されていくことによって、あるいはまた、描かれるべき洋々たる未来が洋々<たらない>ものであると文明人のほとんどが痛感するにあたってその効力を著しく減じたことで、人々は未来よりも、我に訪れることのなかった<在りし日>にむしろ憧憬を抱くことになった。これを<レトロトピア>と呼んだのは、惜しくも昨年生涯を閉じた社会学ジグムント・バウマンであるが(*2)、現在の<ニューエイジ>復興こそは、もっとも観測しがいのある最新のレトロトピア運動であると言える。それも非常に先鋭的な。

 啓蒙主義を発端にする近代的個人主義は、人間存在自体を歴史的経験を通して鍛錬されるべき<個>として措定したのだったが、歴史という鍛冶屋が振り下ろす槌の強さには、到底そうした思想上の<個>が抗いきれるものでなかった。だからこそ、政治空間ではリヴァイアサンが、あるいは民族主義が再度召喚され、内的世界ではスピリチュアリズムが再度召喚されることになった。

だからこそ、かつて非物質文明的精神主義の無邪気な発露として生まれたように見える<ニューエイジ>が、アトムたる個人が後期資本主義からの苛烈な攻撃にさらされることになった今日において短い沈潜期間を経てリバイバルしているのだ、という単純な見取りも見いだせるのかもしれないのだが、今起きている現象はどうやらそういった単線的な理解を超えたなにがしかである気がしてならない。

 それにこそは、あの<加速主義>などとも(一見、旧来の思想空間のチャート図からは真逆のベクトルと見えるかも知れないが)歩みを同じくするような、<オルタナティブ側からのオルタナティブの否定>とも言えるような情況が深く関わっている。それを用意したのは言うまでもなく、唯物論的世界観や進歩主義的世界観の座礁であり、近代個人主義、経済上の自由主義や様々な倫理の開放、そうした個別に由来を異にする様々なイデオロギーを単にリベラルという(犯罪的なまでに)大雑把な括りの元で推し進めてきた60年代以降のカウンターカルチャーが露呈している、目を覆いたくなるほどの陳腐化だった。その陳腐がときたまインターネットという空間に発見されるやいなや、連帯や個人主義の礼賛といったお題目は木っ端微塵に吹き飛ぶことになった。見渡してみるがよい、<お花畑>という(便利な)侮蔑語で、そうした題目が毎秒毎秒荼毘に付されている様を。

 そうした時、かつてのニューレフト世代が経年(老齢化)とともに見出した逃避運動とも右傾化ともいえるこの<ニューエイジ>という屍に、ネクロフィリア的嗜好を浴びせかけているのが現代の<ニューエイジ>リバイバルであるといえるかもしれない。我々が、近い過去に<抹香臭い>と揶揄していたデジタル・シンセサイザーの時代がかった音響を好む時、老齢の歯肉から立つ膿漏の臭いに拐かされるように、成し遂げられなかった煌々たる未来が朽ちていく様を諧謔としてわざわざ愛でているのかもしれない。この転倒した諧謔と、あの<お花畑>のどこに、一ミクロンでも共通する地平があるだろうか。これは、レトロトピアを超え、ディストピア感覚の身体化と、それにともなう自覚的な神経麻痺が召喚した新局面ともいえるのかも知れない。だが、そうやって自覚的にさえ神経を麻痺させなくてはならないほど、我々自身が疲弊にさらされ、圧倒的な自由(という名の孤独)への恐怖に苛まれているからこそ、我々はまた、そこに沈潜することによって、それが当初投げかけていた問題をもうっとりと忘却してしまうのだった。今再び起こっている<ニューエイジ>への嗜好には、自己同一性や歴史性の再獲得のために、元来歴史性を否定するところから興ってきたはずの<ニューエイジ>というものに、(オリジネーターが努めて無視しようとしてきたであろうに顕在化してしまった)元来胚胎されていたプレモダンへの回帰という反動を求めていくという二重に転倒したフェティシズムがあるのである。

 

これまで拙い議論を重ねてきた本稿だが、翻ってウエルベックによる上掲のテキストを読む時、現在到来している<ニューエイジ>についての、かように入り組んだ言説状況を見事なまでに活写しているというのがおわかりいただけるではないか。我々は今こうした状況の真っ只中にいる。歴史的基軸と重力圏は複数に渡り、同時代的言説空間においても、左右上下の差なく、ある一つの言説に纏って更にヒューリスティックな言説が取り巻くというハイパーポストモダン状況の中で、ナショナリズムレイシズムなどの単純な反動的趨勢と並んで、<ニューエイジ>が過去から、そして未来から召喚されているということは、時代をなるべく精緻に診断することで少しでも正気を保とうとする人たちにとって、とても示唆深い現象となっている。

 

(*1) ミシェル・ウエルベック野崎歓訳 『素粒子ちくま文庫  2006年 423頁〜424頁)

(*2) ジグムント・バウマン伊藤茂訳 『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロトピアに魅せられるのか』 青土社 2018年

白塗り 4

 次の週、一段と冷え込みが厳しくなり、空気が頬を差すような日の夕方、男はいつもの通り夜学の授業を受けるため、高校の門をくぐった。今日の一時間目は国語だ。普通高校の教師を定年退職したあとも、夜学の教師として教壇に立ちつづける磯島先生が受け持つこのクラスは、多くの生徒達にとって「息抜き」のようなものとされていた。課題となる小説を読み聞かせる磯島先生の声は、朗々としていながらも、どこか水気や張りというものに乏しく、自然主義文学についての今日の授業においては、その声が、私小説的な裏寂しい予感をさらにそそらせるような効能を持って響いている。すると、男の後ろの席に座った例の選手宣誓の沼谷が、ヒソヒソと話しかけてきた。

「ねえAさ、昨日可愛い女子と一緒にいたじゃん。あれ、誰?」

「え、誰って、まあ昔の知り合い」

「いいじゃん、いいじゃん。ねえ、これ1個あげるから詳しく教えてよ」と、沼谷はヤクルトを机の下から差し出し、さも有効な賄賂品であるといいたげに、笑みを浮かべている。男はそれを形ながらにも受け取って言った。「そんな大したもんじゃないって」

「いくつの子?なんか大人っぽい感じでいいじゃん」

「同い年。中学の時の同級生だよ。っていうか、沼谷さんもあの子の事知っているかもよ」

「なにそれどういう意味」

「ほら、沼谷さんが昨日このヤクルト買った駅前のスーパーでレジ打ちのバイトしているんだよ、あの子」

「えっ、そうなの?俺知らなかった」

「というか、僕らのことどこで見かけたの?」

「いや、あの後パチンコやって帰る帰りにさ、喫茶店からチミらが出てくるのをみたの」

「なるほどね」

「詳しく教えろっておい。どこまでいってんの?」そう言いながら沼谷は。右手の人差し指と中指の間に親指はさむ格好をする。

「なにそれ」

「なにそれって、ダメだなAは。あれじゃん、オマンコのことじゃん」。「オマンコ」の部分を殆ど聞き取れないくらいのかすれ声で発音、というかほぼ口パクのような形で表す沼谷。

「ほんとにそんなんじゃないって!」少し声が大きくなってしまった男は、ハッとして磯島先生の方をチラリと確認する。幸いなことに磯島先生は気づいているのか気づいていないのか判然としないけれど、先程から教材となる小説の解説を続けていた。

「この「K」という登場人物は、作者の門下生であった別の作家のことで、腰を悪くして執筆もままならなくなっていた作者の作品の代筆、つまり作者の口述を筆記する役目をおっていたのですね・・・。大正期の私小説家達は、原稿料それだけでは口に糊していくことは、あー、口に糊するとは、職業として食べていくということですね、そういうことは難しく、こうして相互扶助的に仕事や生活を支え合っていたという状況が垣間見れる点でもこの作品は興味深いわけでして・・・えー、つまりこの時代には、作家的自意識、芸術家の自意識の中には、困窮する自分をいかに赤裸々に表現できるかという心性があったわけですが、一方には見過ごされがちながら現代小説の萌芽となるような実験への探究心もあったりと、まあ色々と論じる点はあるわけですが・・・今日はこの辺にして、また次回そのあたりを掘り下げてみようと思っているわけですが・・・」

 

 明くる日の朝は、前日からの寒波がその猛威を増し、その冬一番の大雪となった。男は母と共に寝具店の開店準備をしながら、こんな日には羽毛布団のセットが二三脚売れないものか、などと話すのだった。消防団の詰め所の前には、めずらしく非常勤団員達が朝から集って、気勢を上げながら雪かきを行っている。「ああよいしょー!よいしょー!」という掛声とともに、沿道につもっていく雪をかき分ける。母はその様子を横目で眺めながら、あんなに一生懸命雪かきしても、昼過ぎにはまたつもっちゃうのに、というようなことを独り言のように言っている。その時、二階からトントントンと階段を降りる音。昨年のあの運動会の折に着ていたのと同じミズノのジャージ上下姿の父が、両腕を肩のところでぐんぐんと回しながら一階の売り場まで降りてくる。

「ちょっと。なにやってんの、お父さん」と母。

「おお、おまえ、雪かきは裏の物置の中か?」腕のぐんぐんをやめ、今度は伸ばした片腕を肘に抱えてぐいぐいと伸長させる運動にうつった父は、いかにもやる気に満ちた様子で、そう言った。

「まさか、お父さん、その体で雪かきをしようっていうの?ちょっと、やめてちょうだいよ、もう」

「やめてちょうだいよもなにも、体もなまってしょうがないし、この牡丹雪みていたら辛抱たまらなくなってしまってさ。ざざーっとひとかきで片付けるから、任せておけよ」

「もう、そんなのだからお医者さんからも愛想つかされるのよ、こないだの検査のときだって、どれだけ俺が体が動かせるか分からせてやるって言っておきながら、結局お医者さんに無理するなって怒られてしょげて帰ってきたでしょ」

「だから、体を動かさないから余計に体が鈍る。体が鈍ったら治るもんも治らないだろう」

「もう。無理してすってん転んでも知りませんよ。ねえA、ちょっと危なっかしくて見てられないから、お父さんの雪かき見張っておいてよ」

「雪かきに見張りなんて聞いたこと無いけど、までもお父さんがそんなにやりたいんだったらしょうがないよな、わかった、俺がちゃんと見とくから」と、発奮する父を見ながら少しの嬉しさとともに、男はそう言った。

「よし、来た。A、じゃ一緒にやるか。ざっといっぺんに片付けちまおう」そう言った父の後について物置に生き、木製の柄に、派手すぎる朱色が眩しいプラスチック製のシャベルのついた雪かきを取り出した。

「あれ、一本しか無かったんだっけ?」と男。

「ああ、そういえば緑の方は前の冬の時に持ち手のところがガバガバに壊れてしまったんだったなあ。じゃあ任せとけ。お前はそのへんで俺の活躍を見ていればいい」そう言った父は、朱色の雪かきを、八甲田山の兵隊がライフルを捧げ銃するようなやり方で抱え持ち、店先の沿道へとのしのしと出ていった。

ざくざくっと小気味よいリズムとともに沿道に積もった雪をガードレール側の方へと積み上げていく父。この人が普段床に臥している病人だということは、通り過ぎる往来の人たちからは想像もつかないことかもしれない。

「ひゃあ、こんなに積もってしまってなあ。ここ数年のうちでも稀じゃないか、こんな大雪は、ひゃあ、こりゃ大変だ」

 父は、自らの肉体へかかる久々の負荷を楽しんでいるかのように「大変だ、これは大変だ」などと言いながらせっせと掻き出し続ける。一塊の雪が道端に次々と積み上げられていき、みるみるうちに店前には元のアスファルトの肌が露出してくる。文字通り雪化粧を剥ぎ取られたその表面が、あられもなくそのザラついた質感を晒す。ほぼ休みなく一息に作業を終えた父が、店先から道路を満足そうに眺めやる。灰色の路傍。ガードレールの濁った白色と、雪の済んだ白色。男は父をねぎらう言葉をかけようとするが、こんもりと積もった成果を見遣り実に満足げな様子で佇む父の姿を、今は少し傍らでじっと眺めていることにする。

 その時。「あ!Aくーん!」道向かいに立った鯉山さんがこちらの方に手を振っている。赤いスタジアムジャンパーにくるまれ、一昨日よりも一層に厚着をした彼女の姿が、白く塗り立てられた世界の中で、まる中空の赤信号のように鮮やかに浮かんでいる。

「あっ!鯉山さん、こないだはどうも」

道を挟んで行われるそのやりとりによって、ようやっと路傍の雪山から目を離し、キョトンとしたような顔を父は男に向ける。

「中学の時一緒だった鯉山さんだよ」男は父に応えた。

「あら、鯉山郁子と申します!え!?あ!?こ・い・や・まです!そうです、はい!」鯉山さんはガードレールに身を乗り出すようにして、父に声を届けようとする。

「コイヤマさん、ね。どうだい?もし急いでなければあったかいお茶でも、ほら、店の中で?今おれたち雪かきが終わったところでね!」父もガードレールに尻を置いて横ざまに身を乗り出すようにして鯉山さんへそう言った。

「ちょっと、お父さん。…ねえ、鯉山さん、仕事に行く途中なんだろ?」男は突然の父の誘い文句に驚きながら言った。

「いえいえ!今日はお休みで、これから少し買い物にいくだけだから。うん、せっかくだから呼ばれようかな」

 

 開店準備を進めていた母は突然の「息子の友人」の来客に驚きながらも、こまごまとお茶請けを出してみたり、座布団を出してみたりしている。

「ほんとにもう、散らかっててスミマセンね…あらあそうだ、ちょうど、お茶っ葉切れちゃっているんだわ。出がらしじゃ悪いわねえ。せっかくなのに。あ、そうだわ、昨日作っておいた甘酒があるわね。それでいいかしら、鯉山さん?」

「突然済みません。どうかお構いなく・・・」店先の小上がりに座らされた鯉山さんは、身を捩るようにしてせせこましく動き回る母に声をかける。今や赤いジャンパーを脱いで、その下に来ていたやや寸足らずな白いとっくりセーター姿となった彼女がその身を捩るたび、そのセーターの白とまるで面を連ならせているように色素の弱い腰のあたりの肌が、なめらかに覗く。黄土色と黒のチェック柄のウール地の厚いスカートは、そうやって腰掛けていると、先程よりもその丈を短くしたように収縮し、皮膚の下でほんのりと血の赤みを帯びた膝小僧を、ちょうどもう少しで隠しきれていない。甘酒の到着を待つ間、鯉山さんは父と、街のどの辺りに住んでいるのかといったことや、ご両親は?、中学の時のクラスは?今日は何を買いに行く途中なの?などと一通りの世間話をしている。その間、男は、彼女が脱ぎ捨てた毛糸のマフラーと、いかにもふかふかしたファーがあしらわれた耳あてが、スカートの太ももの上にこじんまりと鎮座しているのを見つめている。ファーを束ねているプラスチックの部分に、猫のアニメキャラクターがあしらわれたその水色の耳あてが、彼女の年齢からすると少し子供っぽいものに思われてきて、そして同時に、ふと、その耳あての下にある柔らかそうなスカートと、更にはその下の白い皮膜へと思いを馳せていた男は、自分がそういった想念に遊んでいたことを少し驚くとともに、その想念から逃れるように、彼女から目を離した。

「あら、今日は甘く作りすぎてしまったわね」甘酒をすすりながら母が言う。

「いえ、とっても美味しいです。私は好き」

「もっと飲んでいっていいんだよ。しかしAのお友達にこんな麗しいお嬢さんがいるなんてなあ。こいつはほら、むっつりしているやつだから、家の中でもそんな話は一切しないしな。それに夜学じゃあ、周りはヘンなやつばっかりで、あんたみたい友達なんてあそこじゃ出来る見込みもないしな。あははははは」

父は男を冷やかすつもりなのだろう、実に楽しそうにそういって甘酒の入った湯呑みを両手で大事に抱えている。

 ストーブに暖められたトロリとした空気が室内に漂う中、そこにいた皆が少しの沈黙を楽しんでいる。ストーブの上でチンチンと鳴る薬缶の音。雪遊びでもしているのであろう、遠くから聞こえる児童たちの嬌声。膝の上に支えられた湯呑みへ、体を曲げながら息を吹きかけるている、ふうふうという彼女の吐息の音。しばらくして耳をくすぐるようなその静寂の甘さが、恥じらいに取って代わられる頃、男が口を開いた。「・・・でもお父さん、さっき彼女も言っていた通り、一昨日ばったり、しかも久々に会っただけなんだよ。友達だなんてそんな」

「友達だよなあ?」父は男には答えずに、さっと鯉山さんに向き直って言った。

「ええ、そうですね、友達です」湯呑みの中を覗き込むようにしながら言ったその瞬間の彼女の表情は男にはうかがい知れなかったが、その声には少しの笑顔が孕まれているようだった。

「もう、鯉山さんが困っているじゃない。ごめん」と男。

「ううん、全然。A君っ家って、楽しいね」

白塗 3

 あくる年のその日は、冬の眠眼からお天道が気まぐれに起き抜けてきたように、陽の光が冬の靄を優しく包み込む穏やかな一日だった。男は寝具店の定休日である水曜日を利用し、日用品を買い求めに駅前のスーパーへ向かった。スーパーへ着くと、売り場を往来している人たちがどんなものを買っているかをぼんやりと眺める。水曜日になるとこの店でよく遭遇するあのおじいさんはいつもカゴいっぱいに惣菜を詰め込んでいる。幼い男の子を連れた女性は、その子にねだられる駄菓子の内容物がいかに体に悪い成分かといったことを独り言のようにつぶやきながら、いやいやする男の子を背中に、明日以降の食卓に必要なものをカゴに入れていく。夜学の同クラスで、件の運動会の際に選手宣誓を行った沼谷にバッタリと出くわす。男は軽く会釈を交わしながら、沼谷のカゴの中を一瞥すると、菓子パンと相当量のヤクルトドリンクがあった。授業中こっそりと机の中に隠したヤクルトをとりだしては飲んでいる姿を幾度となく目撃したことがあったけれど、なるほどこの店で補充をしていたのか。一通りの品物をカゴに入れながら、自らのカゴがどのような傾向を示しているのかを、それまで他の客たちのそれを見つめていたのと同じ仕方で、考えてみる。洗濯洗剤、トイレットペーパー、マヨネーズ、ブロッコリー、豚バラ肉。そういった品目を、水曜日の夕方のスーパーで買い求める自分と同じ年嵩の見知らぬ男性の生活がどんなものなのか、ぼんやりと思い描こうとしながら、レジへ向かう。

 平日のこの時間帯ということもあるのか、4つあるレジはどこも混雑している。並んでいる客たちのカゴの中の物量を比較しつつ、おそらく最も早く自分へ順番が回ってくるのは一番左の4番レジだろうとあたりを付ける。

 その時男は、町立中学校で同クラスだった鯉山さんが、スーパーの制服姿で4番レジ台の前に居るのに気づいた。鯉山さんと男は在学中もさして会話を交わす機会があったわけでなく、また、時折交わすことがあったとしても、化学や家庭科の時間で同グループになる回数がやや頻繁にあったときくらいだったし、それにそんな時の話題といえば、授業の内容についての他愛のないものだったし、ときおり化学室や家庭科室からA組の教室へ一緒に戻る時に昨晩のAMラジオ放送がどうだったとか、要するに変哲も他愛もないものであった。けれどある時一度だけ、駅前で待ち合わせをして、このあたりの商店街へ家庭科の調理実習の材料を連れ立って買い出しに行ったことがあったのを、男はこの時、思い出した。たしかあの時は、切り干し大根と味噌汁という題だった。そう言われてみれば、その時二人で訪れたのも、このスーパーだったのではないだろうか。

「マヨネーズ一点、ブロッコリー一点、豚バラ肉一点・・・」

バーコードリーダーをかざしながら、そうやってレジをくぐる商品を1個1個声に出す鯉山さん。

「牛乳一点、トイレットペーパー一点・・・」

「あの」

「合計で1560円に・・・」

「あの」

「はい?」

「鯉山さんですよね?」

「はあ」

「あの、第二中で一緒だったAです」

「あ・・・ああ!Aくん!」

「久々だよね」と男は支払いを財布から取り出し、レジ横のプラスチックのあの小さなプールのようになったところに乗せながら言った。

「うんうん。3年の時一緒のクラスだった・・・えっと、1600円のお預かりですので、40円のお返しです」男から受け取った会計をレジ本体に収めて、反対にレジかお釣りを拾い上げて男に渡す。

「あ、仕事中にごめん、いきなり」

「え、全然。でもごめん、お店も混んでいるのでまたあとで」

「あ、う、うん」

 男は買い求めたものをビニール袋に詰めながら、「またあとで」というフレーズが頭のなかで妙に反復されてくるのを感じていた。久々に会った鯉山さん。レジに立つ彼女。「またあとで」の「あと」が、もし「後日どこかで」という意味ではなく、例えば次の休憩時間とか、すぐあとのことだったとしたら。いや、そんなことは無いだろう。普通に考えれば、こういうシチュエーションの場合における「またあとで」というのは、社交辞令的な「いづれどこかで」という意味が一般的だろう。でもそうだとしたら、「またあとで」ではなく「またこんど」とか、「またいつか」という言葉の使い方をしないだろうか?だとしたら、「そろそろ体が空くからちょっとそこで待ってて」という意味にも解釈できないだろうか?豚バラ肉をビニール袋へ入れながら、はじめは半ば遊戯的に考えていたそんなことが、何やら切迫した問題に思われてきた。もしも「ちょっと待ってて」というつもりで鯉山さんが言ったのだとすれば、なにも言わずに店を辞去するのは、偶然とは言え久々に再開したという状況に鑑みて、あまりに礼を失する行為になりはしないだろうか。そんなことを逡巡するくらいなら、当の鯉山さんへさきほどの真意を尋ねれば良いものだが、4番レジには先程にもましてお客が列を作っているし、なによりも、「さっきの「またあとで」というのは、「すぐあとで」ってことかな?」などという質問をするというのは、すこし常識はずれというか、正直怪しげな印象すら与えかねない感もあり、妙にマゴマゴとしてきてしまうのだった。どうしようかしらと思いつつも、今日はこの後に特段急ぐべき用事も無いし、なんとなく鯉山さんの様子を伺いつつ、それとなく店内をもう一周してみることにする。調味料の売り場に並ぶ香辛料の成分表を眺めたり、季節外れのアイス売り場で、その色とりどりのパッケージデザインを閲したりと、妙な具合で生じてしまったこの無為な時間を過ごしていると、店名の入ったオレンジ色の前掛けを外しながら、鯉山さんが男に近づいてきて言った。

「お待たせしてごめんね」

「あっ」

「何?「あっ」って」

「いやその、なんでもないけど」

「本当に久々だねえ。せっかくだし、時間あればどっかお茶でもいく?」

「もういいの?仕事は?」

「うん、今日は早番だったから、もうこの時間で終わりだから」

「そっか、俺もこのあとは別に予定無いし、せっかくだし、そうしようか」

「オッケー。じゃ、事務室に言ったら荷物持ってすぐに戻ってくるから。お店の入り口でちょっと待っててもらっていい?」

「うん、了解」

 

 鯉山さんは、中学卒業後は、隣町の商業高校に進み、そこで簿記資格を取得するべく学んでいるのだという。出来れば大学にも進学して、都会に一人暮らしもしてみたい。家族は4人家族で、母と父と、大学生の兄がひとり。スーパーでバイトしているのは自らの小遣いのため。趣味は映画を観ること。Aくんは映画みる?そうか、スクリーンっていいよお、グオーって引き込まれちゃう。友達は多くも少なくもなく。商業高校だから女子率高いよ。女子からけっこうモテる方で、こないだなんて部活の後輩から、あ、部活はソフトボールね、なんかラブレターみたいなのをもらっちゃった。ベタじゃない?最近は親と進路のことですこしブツかってて。昨日もケンカをしてしまった。簿記の資格取ったら、地元の会社で経理で雇ってくれるところもあるだろう、何も一人暮らしにあこがれて大学に進学する必要もないではないか、と訊けば、いや、今の時代、新聞やテレビでもやっている通り、女性の社会進出は大きな流れになってきているし、オフィスレディとしてバリバリ働くのにも憧れるなあ。お嫁さんになりたいとかなりたくないとかはよくわからない。

 何故久々に会った自分にそこまで饒舌に語るのだろうかということを不思議に思いながら、男は彼女のよく動く口を見ていた。中学校のときより一層短く整えられ、快活そうな印象を更に増している。短髪。話しながらもよく動き回る両目は、ときおり話の要点に差し掛かったと同時に男のことをキリッと見つめる。大きくも小さくもないその目には、本人が曰くの通り「コンタクトレンズに挑戦しているんだけど、目にあわなくていつもゴロゴロしている」からなのか、通常よりも多めの水分が湛えられている。細く尖った顎の先に少し赤みのかかったニキビがあって、時折、右手の人差し指でそれに触れてみたりしている。そしてその上には、やや薄めながらほのかな肉感を感じさせる、瑞々しい唇。

「ベラベラごめんね。なんか最近全然中学の時の知り合いとか会えないからサー、色々喋っちゃった」

「全然」

「Aくんはさ、今どこの高校に行ってるの?」

「おれは実は夜に定時制にいっているんだ。前からお父さんの具合が悪いから、お店を手伝うわなくちゃだったりして」

「へーそうだったんだね。それじゃ大変だね」

「まあでも慣れちゃえばね。クラスには変なやつらもいっぱいいて面白いよ」

「へーそうなんだあ。なんか大人な感じだね」

「いやそういうわけじゃないけど」

彼女は、溶けてすっかり小さくなってしまったオレンジジュースの氷をストローでコロコロといじり、それを見つめる。

「あ、そういえば前にパートのおばさんから聞いたんだけど、去年夜学の運動会の時、面白いことあったんだってね」

「なに?」

「なんか、ハードル走のときさ、狂犬病のノラ犬がグランドへ入ってきて、みんな逃げ回ってレースめちゃくちゃにした挙句、先頭を走っていた選手と大衝突して、その人もんどり打って大怪我しちゃったらしいよ。アハハハハ。でも「アハハ」じゃないよね、こわいよね。それ、Aくんも見てた?」

「あ…見てたっていうか、それ、俺だね。その先頭走っていたの」

「えー!ホントに?怪我とかもう大丈夫なの?噛まれなかったの?その犬に」

「怪我もしてないし、噛まれてもいないよ」

「すごい!A君、不死身じゃん」

「だからそうじゃないんだけど」

 スキャンダルの当事者の思いかけない登場にすっかり爛々と目を輝かせている鯉山さんに、男は苦笑せざるを得なかったけれど、なぜだか巷であの日のことがそんな大げさな話になっているということへの戸惑いもありつつも、むしろ不思議と自尊心のようなものをくすぐられるような思いもし、悪い気はしない。

 「しかし、あの、Aくんがねー。中学の時は・・・変な言い方だけど、地味系だとおもっていたのに。すごいじゃん」

「いやあ、まあ…あれは別に事故みたいなものだから」

「ねえ、逆にさ、私のことはどう思ってた?中学校の時」と、鯉山さんはコップの底に残った氷の溶けた水を、ストローを使わずコップから直接サッと飲み干して、言った。男はその問いかけに答えるのに少し時間を要しつつも、言った。

「うーん、どうって、まあ、元気な子だなって」

「でた。「元気」かあ。大人っぽいな、とかそういうのは思ってなかった?」

思えば普段はこうして同年代の女子と話をする事自体も稀な男は、どう答えていいか分からず、彼女から目をそらして、喫茶店の奥の壁かかっている、恐らく素人仕事であろう変哲もない田園の風景が描かれた水彩画を見やった。すると鯉山さんは少し意地の悪そうなけれど、相変わらず水分をたっぷり湛えた目をして、言った。

「わたし、昔から、同世代の男子って話あわなくてさ。A君はちょっと落ち着いている感じだから、わかるでしょ」

「落ち着いているのかな、自分では良くわからないけれども」

「そうだよ、落ち着いているよ。私の彼氏、S大の4年生なんだけど、彼と比べてもなんかそんな変わんない気がするっていうか」

突然の「彼氏」という単語の登場にすこし戸惑いながら、男はただ「そっか」と言った。