白塗 2

 男は西松町に寝具店の一人っ子として生まれた。父は男が幼い時から病弱で、男が地元の中学を出る頃には日がな一日病臥する生活を暮らしていた。だから、男は高校へ上がるなり夜学へ通いだし、昼間はよく家を扶けた。そのころは母も店にたっていて、二人で仕入れ台帳とにらめっこをしたり、珠に訪れるお客(大抵は老婆だった)の相手をしたり、お客のないときは店内を箒かけしたりした。西松町駅の南口ロータリーを起点にして伸びる商店街の中ほどに構えられた寝具店からは、斜向かいにある朽ちかけた消防団詰め所の粉吹きしたような屋根瓦に西日が落ちていく様がよく見えた。男と母は、夏の時分であればその詰め所の屋根瓦に橙色の西日が照りだした頃、冬の時分であれば屋根瓦からすっかりと日の名残りが消えてしまった頃をみて、店を閉める準備をするのだった。

 「お母さん、もう店じまいしようか。今日も閑古鳥だったね・・・。ええっと、売上は、枕カバーが5つと、竹の布団タタキ1本、防ダニ脱臭剤2つと、子供用タオルケット2枚とで、合計の金額が・・・」と男が売上表に一行一行ペンで丁寧に書き込んでいく。

 「この時期にしちゃあ出たほうよ。毎日が毎日引越しシーズンだ衣替えだって時期のようには行かないよ」母はシャッターを店の中からソロソロと閉め、男へ振り向きながら言った。

 「お父さんが店に立っていた時は、ずいぶんと布団セットや毛布とかが売れていたって言うけど、もうこの西末町に住んでいる人たち全員が布団や毛布を持っていて、そういう大物は必要無いのかもね」

 「どうだかね。お父さんの啖呵売りの効果もあったんだとおもうんだけれどね。あ、そろそろ食事の準備をするから、お父さんの様子を2階へ見て来なさい。今日は餃子」

 「うん。わかった」

 

 一家は寝具店の2階を日常の居間として使っている。そのいちばん東側の6畳間が父の病臥している部屋である。その部屋の窓はベランダに面した大きなサッシ式のもので、母が昼間にあわただしく洗濯物を干しに出たり取り込んだりと家の中でも交通量の多いこの部屋を、病気療養のスペースとするのはいささか善策といいがたい。それでも父は、その大きな窓から空を見たがった。その時分の商店街には背の高いビルディング型の建物の無かったせいで、ずっと伏している父の姿勢からは空が広く、よく見えたのだった。斜向かいの消防団詰め所の屋根瓦も、ここからなら一階の店先よりもよく見えた。

 「お父さん。そろそろ晩ごはんになるよ。起きてこれるかい?」

 「うーん。おまえか。今日も昼間だというのによく寝てしまったなあ。こんな陽気の時期もあとすこししか続かないと思うと寂しいよな」

 「今日は餃子だってさ」

 「餃子かあ。久々の好物だな。ニンニクもたっぷり入れてくれよ」

 「うん、そうしてもらうよ。精がつくね」

 

 病気の調子の良い時には、父は布団を出てダイニングまでやってくる。持病で肺が弱っているのに加えて、このところは長年の病臥生活で床ずれに罹りはじめていて、食事の時は少し無理してでも椅子に座って採るようにしている。

 「好きだな。餃子」今日はよく休んで食欲があるように見える父。

 「たくさんあるからね。どんどん食べて元気をつけてくれなきゃあね。」母も、父の身体の調子が良さそうな日は、嬉しそうに話す。

 「マヨネーズは?」と父。

 「ええっ?餃子にマヨネーズ?」と男。

 「餃子っていうのはな、知っているか、完全食っていうんだよな。いろんな栄養が一個の中に全部入っている。これを更にマヨネーズにドボン。こうすると超完全食だ」小皿に盛ったマヨネーズに餃子を浸し、父は得意気だ。

 「お父さんの味覚っていうのは昔っからわからないもんだよねえ。病気しているっていうのにそんな塩っ気ばっかりとって」心配をするような素振りながらもよく食べる父の様子に笑みを母が浮かべながら言った。

 「そういえば、お父さん。来週の土曜日に高校の運動会があるんだけど、調子が良かったら来てみない?今ちょうど授業の合間で練習をしているんだけど、夜間の連中だからみんな気性もバラバラで、ちょっとした見ものになると思うよ」と男。

 「へえ、そうなのか。身体と相談してみるかな」無精に伸びてしまった口ひげに付いたマヨネーズをふきんで拭いながら父が言った。

 「お父さん、もしかしてあなた、見に行くんじゃなくて参加するってつもり?」母が先ほどの調子から一変、不安そうに父に訊く。

 「おう?そのつもりだよ。こいつが小学生だった時分の運動会じゃ、父兄対抗リレーのアンカーまでつとめた俺だからな」

 「ちょっとお父さん、夜学の運動会には父兄対抗戦なんてないよ。父兄なんてのが居ない連中だって沢山いるんだから、学校の方も気遣って生徒だけの開催なんだな、多分」放っておけばその場で屈伸運動でもしかねない父を制して男は言った。

 「なんだつまんねえのな。でも見に行けたら行くよ。お前は勉強はできるんだろうけど運動となるとからきしだものな。俺が見に行ったら気張ってやるように」

 「うん。でもまあムリしないでね」

 

 週間の天気予報では雨天が危ぶまれたその土曜日だったが、運動会当日には雲一つない晴天となった。といっても夜学の運動会なので、抜けるような秋晴れの青空ではなく、満天の星空。そろそろ肌寒くなりつつある空気が、普段は履かないトレパンからむき出しになっている白い脛に心地よい。夜間開催ということもあって、近隣への配慮から高校のグラウンドでなくそこから1キロメートルほど離れた河川敷にある町営グラウンドを貸しきっての開催だ。教員や生徒などがそろい、スタンドのナイター照明が煌々と照らされると、それまで空一面に広がっていた星々がその光度を弱めた。

 

 「選手宣誓〜!われわれはー!スポーツマンシップに、の、の、乗っとり〜!正々堂々と闘いぬくことをここに誓いますー!(誓いますー!)」

 かつてヤンキーグループとのいざこざが原因で普通高校を退学になり、18歳になって夜学に再入学した、同窓の沼谷が宣誓を告げると、どこからともなく「誓いますー!」のこだまが起こる。男の父も例外ではなく、出場しないくせに高らかに宣誓に応じている。出場しないくせに母にせがんで箪笥の奥から引っ張ってもらって来てきたミズノ製ジャージを着た父は、久々に夜風を肌に感じながら、いつもより少しだけ若返って見える。

 「お父さん、僕が出る競技はまだまだ先だからテントのあたりにでも座っていてしばらく休んでいてよ」

 「そうか。俺の出る幕はまだまだ先か。出場はしないから、応援だけだけどな」

 「うん。あまり無理せず、みっともないから静かにしていてくれよ」

 「お母さんみないなことを言ってくれるな」

 運動会は100m走、400m走、走り幅跳び走り高跳びとつづいて、いよいよ男の出場種目である200mハードル走を迎えた。スタート位置に向かう男に父がミズノの上着を振りかざして合図を送っている。どうやら、この位置から辛うじて読唇するに、もし下位に甘んじることがあれば小遣い減額だと言っているようだ。そんな父の浮かれきった姿が周囲にどう写っているのやら、男は恥じらいを感じながらスタート台に足を載せる。

 「よーい。ドオン!」夜間を憚ってのピストル代わりの教員の掛声が、短く刻まれた「ドン」ではなく、だらしなく「ドオン」であったために男を含めた二三名の選手がタイミングを取りはぐれ、ギクシャクした足取りでのスタートとなった。スタート直後に身体一つ抜きん出たのは先程選手宣誓をした沼谷。一歩一歩足を進めるたびに顎があがり膝も空を切る。小型車がウィリー走行をしているような格好になりつつある沼谷は200m走り終えるまで首位を守るのは難しいだろう。案の定、最初のハードルに差し掛かる時、前方へ傾斜を付けて飛び抜けなければならないところを、ほぼ上方と言って差し支えないような角度で飛び上がってしまい、着地と同時に臀部をハードルに強打する始末。「ぐっ!」

 次いでトップに立ったのは、30歳で大検をとるために夜学に通っている島本だ。彼は身長190cmでいながら体重60kgという非常な痩せぎすで、ハードルを越え越え走る姿はまるで巨大な授業用のコンパスが何度も開閉を繰り返しているよう。しかし、その独特の角ばったランニングフォームが災いしたのか、4つ目のハードルを見事向こう脛で蹴りあげてしまいもんどり打ってその場に倒れこむ。「いってえ!」

 さてそんな阿鼻叫喚にギャラリーがやんやの喝采をあげる中、その二人を差し置いて今度トップに立ったのは、まさしく男だった。生まれてこの方、保育園でも、小学校でも、中学校でもこうした運動会で一等を取ったことのなかった彼はこの珍事の出来にどう対応していいやらの体。ただひたすらにがむしゃらに走りまくり、残りのハードルが2台のみとなった時、チラと後方を振り向くと、後ろにつけているのは、その頃花盛りだった地元の暴走族「レッドキング」で旗振りを任されている意気盛んな17歳の竹中だ。なかなかのスタートを切っていた彼だったが、重度の喫煙癖に心肺が悲鳴を上げているようで(じっさい「ひゅー!ひゅー!」という珍妙な音を口から発している)、ここから男に追いつくのはできなそう。

 そこからのことは、男にはスローモーションで記憶されている。そういうことが起きたということがよくわからないまま、「良くわからない」という感情のまま記憶されている。あれはジョンだった。町を分断する河にかかる、河川敷グラウンド近く西松大橋の麓に住むルンペンのしげちゃんの飼い犬(法的には飼い犬ではないが実質上飼い犬だった)の、雑種で狂犬病(とされていた)ジョンが、ゴールの先彼方から、男めがけて一直線に走り迫ってくるではないか。その目はまるで、これまで山里で人二三人は殺めてきたような狂気的な印象を湛え、口からは大量の唾液と異様に長く赤い下がベロンとたれ、一歩一歩男に走り寄ってくるたびに柱時計の振り子のように定期的なリズムとともに揺れている。男は思った。ジョンよ、お前の標的はなんだ?教員や出番前の選手たちがつまんでいる斗々屋の仕出し弁当か?それとも自分の後を走る、竹中か?それとも自分なのか?

 ジョンの軌跡と男の走るレーンが見事一直線上に並んだ。ジョンは弁当にも他の選手にも目もくれず、男にむかって一直線で駆けてくる。このまま行くと大衝突は免れないであろう状況だ。男とジョンの目がしっかと見合わせられ、激突の前にどちらが先に進路を変更するかというチキンレースの様相を呈してきている。しかし男としてもジョンと衝突を避けるために立ち止まったりレーンを外れてしまうことは、その瞬間にこのレースでの敗北を意味することであるから、あくまで剛毅に、ジョンめがけて一直線に走り続けるのだった。そう思い自らを奮い立たせるていると、男の脚はそれまでより活力をまして回転するよう。二位以下の選手をグイグイと引き離し、ゴールの方すなわちジョンの方へ更に近づいていく。対するジョンも、闘志を湛えつつも、男の発奮に敬意を表するような練達の勝負師のような透徹した目を湛え、ハードルをくぐり抜けながら速力を上げて男との方へグイグイと近づいてくる。

「ハアハアハアハア!」

「ヘエヘエへエヘエ!」

急遽出来した白熱のチキンレースに、聴衆はやんやの喝采をもってその場のなりゆきに注視する。あと少しで激突するっ!と誰もが思った瞬間、男は一瞬戸惑った。今は頭に血が上っているだけなのか、こんな運動会のハードル走で一位になったからといってなんなんだろう?野犬のジョンともんどり打って正面衝突して醜態を演じるくらいなら、ここで一瞬たちどまって「弱ったなあ」という風に観衆の方へむかって苦い笑いを投げるだけで、それだけで良いのではないかな?そう思った間隙に。それまで全速力で疾走して男との激突まで後10メートルほどとなっていたジョンが急にその踵を返したのだった。

「ザッ!」っと格好の良い砂砂埃をたてて、急停止したジョンはやおら体を翻し、それまでの勢いはそのままに、180度のUターンで来る道を疾走し始めた。その姿を見てわっと一瞬歓喜が胸にせり上がってくるのを感じた男は、先程までの威勢を取り戻して「これでゴールまでまっしぐらだ」とおもった瞬間、しかしながら彼(ジョン)が、先程こちらにむかってくる際には巧みにそのゲート部をすり抜けてきたコース上にある最後のハードル台に、高速でそのままぶつかって行ったのだった。「ダン!」という肉と木がしたたかにぶつかる乾いた音がし、その直後にハードルは前方に簡単に倒れ、あたらしく支柱部の金属と地面がぶつかりあう音を立てたのだった。

 スタートのときには間延びしていたはずの笛の音が「ピーッ」と高く粒だった音を上げ、男が1位をとれたかもしれない200メートルハードル走の無効を伝えた。

 こういったときにはよく、その劇的な様子の強調として「一瞬の瞬間があったあと」などと描写されることが多いのだけど、このときはまったくそんなことはなくて、ただザワザワの内容が入れ替わったのみだった。思いがけなく出来した興奮をゆっくりと冷ますかのように、「あーれ大変だ」とか「いやー、わはは」などと散発的に感想とも感嘆ともつかないような言葉を観衆は口にし始めて、男の名前を呼びながら「残念だったなー!仕切り直しだ!それ!」などと激励する。グラウンドの向こう側では、しげちゃんがジョンの1/10くらいの速力でジョンを追い回しながら(厳密に描写するならゆらゆら左右前後へうごくしげちゃんをを中心にしてジョンがその半径上を駆け回る)「くらっ!」とか「この!」とかいう声をしきりにあげているのがわかる。観衆たちも先程までのレースへの注視をすっかりそちらの方へむけて、この突然のトムとジェリーの出現に大盛り上がりであった。

 

 すっかりと夜も更け、町営グラウンドから家へと帰る道すがら、男はまだ少し興奮した体を冷ますように、上着を腰に巻いた格好で、歩いていた。澄んだ空の中、チラチラと明滅する星たちが、少し物言いたげだがそれ以上はせり出てこない、といった様子で静謐な存在感を放っている。小さな町は既に静寂に包まれ、眠りの準備をし終えようとする少し前の子供のように、明かりを落とすのを躊躇いながらも、徐々に床に入っていくようだ。

 「お前、なんでせっかくの再レースに出なかったんだよ?あの調子だったらちゃんと一位になれたはずだろうにさ」息子の真似をしてかミズノのジャージの上を腰に巻いた父が訊く。

 「うーん、一度無効レースになっちゃうと、どうしてもその次も出るっていうのは億劫になってしまって」

 「でもお前、これまで小学校でも中学校でも、お前がスポーツの競技で一位になったことなんてなかったろ。その折角の機会だったっていうのになあ」

 「もう、いいんだよ。ジョンがこちらめがけて走ってきたときは、絶対にジョンを蹴散らしてでも一位になってやろう、って思っていたんだけど、ハードル倒されちゃったときにはなんだか可笑しくなってしまって」

 「何事でも、一度食いついたら離れない。そういう精神というものがどうもお前にはないんだよなあ」

 「おれだってそれは一位になりたいと思うけど。でもそれってハードル走って括りとそれにくっついたルールがあるからで、その中での一位だから自分にとって気持ちが良いし、追い求めたくなるのかもね。そういうのがなくなっちゃったら、なんで一位を求めるかすらもよく分からなくなっちゃって」

 「そういうのって?」

 「うーん、だから、なにもかもありな状態で一位になっても、それって一位ってことなのかなって」

 「そういうもんかね?勉強でもそうなのか」

 「そういうもんだよ。勉強だって受験とか勉強ってくくりがあるからみんな頑張るんだし」

 「どうも屁理屈に聞こえるけれどな、お父さんには。お母さんはどうなんだ?こいつが一位取れなくて悔しくないのか?」と、それまで二人の会話を聴くともなく耳を傾けていた母に、父が問うた。

 「さあねえ。とにかく怪我がなくてよかったわよねえ。ふたりとも、そんな寒そうな格好して。体に障るから家に着くまでは上着をはおってらっしゃい」

 それまで父子の数歩後を歩いていた母が発したその答えとともに、三人は寝具店の玄関口に着いた。

 

 そんな運動会の秋の一日のから季節はその歩速をぐんぐんと早め、今や西松町の小さな商店街もすっかりと師走に向けて褐色からヴィヴィッドなモノトーンへと彩りを変えていく。男はそれまでと変わらず昼間は寝具店を手伝い、夜は学校へ通うという生活を続けている。一家の団欒の風景もこれといった変化もなく、幸い、父の病状にも悪い兆しは見受けられない。男があの運動会の日のハードル走で一位を取り損なってしまったというあのこととも、徐々に日常の内部へ埋没し、それが家庭内でそれが話題に登ることも、ごく自然な下降曲線を取るような形で、少なくなっていったのだった。

 一体自分は同じ年かさの若者と比して、いくぶん単調で、「あちら側」の価値基準からすればいくぶん「幸せでない」生活を日々送っているのだろうか。何かの刺激もなく、突き上げてくるような内的欲求や目的意識を自分の中を探そうとしても、その探している自分ばかりが気持ちの中で前景化してきて、物を指す先を探しているつもりが、その指先を自分の目をとおしてぼんやりと眺めているような感覚にとらわれることもあった。もちろん、人並みに美味しいものも食べたく、人から注目されることの快さについても知っているつもりだし、その頃よく言われていたような「シラケ」といった感覚とも隔絶したもののように思われる。男は決してシラケてはいなかった。胸の中に何か青春の懊悩とも言うべき苦悶を抱えているという自覚もなかった。そして、何故自分がこの世界に生まれ落ち、そして生きていくのか、そういう不安についても、稀に時間をつぶすために読むだけだけど、いくつかの書物にあたって理解はすることができたが、共感を抱くことも無かった。要するに、男は非常に希少な意味でまったくもって正常だった。置かれている状況や他人の異常さを理解することが出来る、そういった正常さ。思慮と遠慮と良識があったのだ。「人間は、経験を伴ってこそ、はじめて思慮や知性、そして良識と言ったものの本懐を知り、それをもって人間性を発揮・駆動させていくことが出来る」そういうことすら、彼は判っていた。判っていたからこそ、生きることへ簡単に絶望したり、または反対に妙に期待を掛けたりということもなかった。悩みがないことが悩みにもならなかった。悩みがない状態は、かれにとって自然だったし、その自然を享受できるくらいに彼は思慮深かった。

 だからこそ、男はつまらぬ人間だった。周りには、友人というべき、男を一個の捨て置けない存在として接するものはいなかった。また、両親からもそう思われているかもしれない、という男自身の危惧は、危惧では無かったのかもしれない。両親は、男のそういった透徹とすら言える思慮深さを、彼ならではの有力な個性として誇ろうと努力していた。しかしそれは、そう思おうと努力するようにしていないと雲散霧消してしまうたぐいの、儚げでささやかな希望だった。触ると脆い果物の実を手でやさしくほぐし分けるように、そのふわふわとした希望を家族三人で分け合っていた。それは、日々家族が慎ましやかに暮らしていこうとするには、なめらかな手触りの潤滑油として、本来以上の機能性を発揮してくれているようだった。寝具店の窓から、沈む夕日を眺める時、家族の成員一人ひとりが、夕日がするすると無事に地平に潜り込んでいくその抵抗感の無い感じとともに、そのささやかな希望を自らにひきついては、少しだけ本当に自分だけの悦に入るのだった。ただ時間の経過というものが、それが孕む「変化」という性質を漂白され、緩やかげに滑っていく、その好ましい粘性だけを取り残してくれているように。

冬の霧

 その日も、同じように朝起き抜けて、体がしびれてしまうほどの冷たい空気に囲まれていた。眠さの抜け切らない体に清涼を取り込むことで体がようやくわなないてくる、だから冬はそうして、いつも寝間着のままで深く乾いた空気を吸い込む。南に面した土間からは、手入れのまばらな焦茶色と灰色の間のような野菜畑が広がっていて、今日は早い時間から老夫婦が土仕事を行っている。赤襦袢に厚手のウィンドブレーカーを羽織った老男性が、旧い壁時計の針のように、見つめ続けていてはそれが動いていることすらわからないくらい緩慢に、土をいじりながら、僕から見て上手から下手へと、ゆっくり動いていく。そして、傍らに、土をいじる夫に何かここからでは目視するに難しいくらいの細かな何か(作物の種なのだろうか?)を、丁寧な手つきで渡し渡しする老婆がひとり。朝霜が照り返す太陽に目を細める僕には、そうとはっきりわからないのだけど、老婆がこちらに一瞥を寄越したような気もしたのだが。

 

  僕は、風呂というのは朝に入りたい。極端な癖っ毛をもつ僕の毛髪は、仮に前日就寝前などに風呂に入ってしまったら、朝起きた時はまるで頭皮から線虫が威勢よくうぞ立っているような激しい寝癖を拵えてしまったものだ。だから、その日も、老夫婦の土いじりを半眼で眺めながらあくびをしたあとは、パパパと手際よく寝巻きを床に落として、直ぐに浴室へ行くのだった。ところで、なぜ冬の浴室というのは、あんなにも辛く寒いものなのだろう。何か冬というのが漫画的な悪魔の様相でもって、意図的なイタズラとして僕が寝ている一晩中、そこへひどい冷気を注ぎ込んでいたのではないかというくらいの。足の裏にひたっと触るタイル面はきっと、その朝に屋外で自然が作る薄氷の冷たさを平気で上回っているようだし、そもそもその空気の残虐なまでの冷たさ。むかしにみた映画で、沢山の受刑者が体をこわばらせながら、機械的な足取りで大きな浴室へ流れ込まされていく場面があったけれど、きっとこんなような寒さだったのだろう、と思う。

  夏の間には、掃除をすれどもすれども、あんなにもしくこく繁茂していた水カビさえも、もはやこの頃はすっかり沈黙をしている。江戸っ子風呂ということばがあるけれど、それくらいの高温にシャワー温度を設定して、一気に体に浴びせかけたい。でもそれだって最初のうちは水道管とホースに前日来溜まった冷水が出てくるものだから、用心が必要だ。間違って第一水を体にかけてしまった時は、鋭く高い声が自然に上がってしまう。それくらいに、あの第一水は、容赦が無かった。

 

  裸のまま部屋に戻ってみると、ここへきて更に野良仕事に本腰の入ったと思われる老夫婦が、僕の室の方にさらに接近したほんの数メートルといった位置で作業を続けている。土を掘り返しては、また埋めている。そんなことを繰り返している。ばかな土いじりがあったものだ。おそらく、あそこからなら部屋の中で棒立ちする僕の姿はきっとくっきりと見えているであろうに、一向にこちらには関心を示さず、ただなにか二人でもぐもぐとお喋りをしながら、土をいじっている。僕の部屋のガラス窓は、大した厚みもなく、普段なら戸外の音が遠慮なしに闖入してくるはずなのに、なぜだか今日は一切の音が聞こえてこない。老夫婦の口元から会話の内容を読もうとしても、その皺ばって窄まった口の動きからはなかなか読唇がむずかしい。辛うじて読み取れたように思うのは、「もう終わり」という言葉だったような。

 

  僕は裸のまま窓際をウロウロして、彼らの注意を引こうとするのだけれど、相変わらずこちらには気付かない。そんなことをしているのに、風呂上がりの体はちっとも冷たくはなってはくれない。色褪せたフローリングの上でピタピタと裸足で歩き回るうちに、淡い憤怒のような気持ちが起こってくる。こんなアパートの中で毎日を過ごしていた自分が、飽きずに土を掘り返しては埋めしている老夫婦と共に、何か知らない誰だかに取り立てるところのない一区切りの現象として扱われているかのようで癪に触る。僕は裸のまま、窓を開けてみて、老夫婦に向かって「おはようございます!」と大きく声に出してみる。初めてこちらを見遣った老夫婦は、別段驚いた様子もなく、二人揃って同じようによわよわと口元を動かしている。確かに口は動いているのだけど、その声はなぜだか聴こえない。ただ何やらこう言っているようだ。「もう終わりだよ」

  

その時、部屋にうっすらと霧が立ち込めるように、水がタイルに弾かれる細かな音が背後からやってきて、シャワーを止めないままで風呂を出てきてしまったことを思い出した僕は、また再び土いじりに戻った老夫婦を背にして、風呂場へと向かった。タイルの上に横たわった僕の上に、冷たい水が降り注いでいる様子は、みているだけでも寒々しいものだったので、シャワーを止めた僕はまたすぐに部屋へと戻っていった。

絶対零度の社会性

  物質が、その細分単位である分子が、運動をやめて沈黙するときに、温度は絶対零度となる。これ以上低くなりようがない極点として、物質的存在はすべて動きを停止し、停止したゆえの結果として、それ以上には下回ることのない結束点として、超低温をわれわれ観察者に提示する。反対に、高温状態の極点は無限であるとされている。超高温とはすなわち、宇宙開闢のその瞬間より以前、すべての分子が極限的にミクロな一点に収斂していた状況と意味を同じくする。低温には極限があるのに、しかし高温には無限があてがわれているということに、高校理科の知識しかもたないそのときから、何か畏怖と違和を覚えてきた。マイナスへの運動は、最終的には無動としての死を呼ぶ。

 さて、物質の世界ではそのような見取りがすでに確立されている一方、社会的状況論においてはどのようになっているのだろうか。もっと言えば、人文学一般をモダン以降支えてきた、個人に帰属すべき「感情」というものについて議論を敷衍する場合に当たっては、いかなる見取りが可能なのだろうか。一般に、社会の力学系は、社会学的論理・語彙によって記述されるように、ある一定のコミュニティなり、成員の集合における力学関係を擬似自然科学的に記述されることにより、その信頼性を担保しようとする。イエス/ノーという二者択一の二項対立的議論であったり、またはもっと卑近な例で言えば、例えば多数決という、技術論的帰結というべきさまざまな合理主義的理解の帰結的方法論が、跋扈して久しいこのモダン以降の社会にあって、実はぐろぐろと蠢く様々な個人の指向性がそれらに(非暴力的な)回収を見せたということは、既に近代社会にあっては一定の手法的成功を収めている。しかしながら、そういった「民主的」プロセスからどうしてもこぼれ落ちてしまう(本来は民主主義が保証するはずであった)個人に帰結する他はないような極めて個的な出来事に伴う感情の軋轢や跋扈は、そういった民主的プロセスの外縁に置かれることになる。なぜなら、個的状況を波形的に処理しようとする時に、その波形そのものを二次元的に眺め、また技術論的に処理することこそが民主的プロセスそのものを成立させる条件そのものでもあるからだ。そこには、あまりに自明なことであるが、個々の主張や考えにコンプレッサーを加え、その上で観察しうるサインのみを政治的サインとしてすくい取るという、合理化への欲望が前景化された、技術論上の効率主義が存在するからにほかならない。その結論をあなたが導き出すまでに思考された過程よりも、その結果のみを勘案するという、いつでも我々がその恐怖にさらされている、イデオロギーがでんと居座っている。

 そういったコンプレッサー的民主主義=モダン以降の民主主義において、我々は(当然にそのシステムを駆動する側にいる人間も含むわけだが)、違和を表明するその機会を奪われるという経験とともに、違和を感じる心すらも収奪されている。こんな議論はすでに、例えばジョージ・オーウェルの『1984』における個的言語の収奪によるイデオロギー管理を例に出すまでもなく、あまりに頻繁に歴史に登場する悲哀ではあるのだけれど、現代ではさらに、ここへあのインターネットにより高度化された同調への圧力も加わるのだから、なかなかにタフな状況と言える。また、その当然の逆説としては、そうしたコンプレッサー的民主的から逃げ出るように、違和を感じるだけではなくて、なにがしかの政治的な表明すらも(SNSなどを通して)容易い状況にあることも確かであると思う。しかしながら、今日われわれが対峙している困難は、そのような「抑圧されるものもいるなら、どこかにきっと反駁すものもいる」式の、古典的なレジスタンス運動止揚のような次元を超え出て、既にそうした意識すらも、絶対零度的な終末感に苛まれ、運動を止めてしまうような次元に立ち入ってしまっているのでは無いかという疑問をいだいてしまう。

 人にとってはそれは、愛の挫折であるだろうし、全ての存在が表現主体になりうるということから反射的に引き起こされる、表現という行為の価値の失墜でもあるかもしれないし、それに伴う批評言語の滅失であるかもしれない。しかしそれがどのような原因によるものだとしても、自然科学において確固として実証されている、絶対零度状況のおける無運動的沈滞とリンケージを結びうるほどに、強烈な虚無を招来することであるとは、例えば数十年前には、だれが予想し得ただろうか。いま、文化相対主義こそが、停滞というには生易しいかもしれない、運動の停止(それは大きな見取り図を用いれば、全体主義の挫折ならびにイデオロギー座礁新自由主義たグローバリゼーションといった「オルタナティブ」な潮流の失敗、更にいえばあの「マルティチュード」概念への懐疑のなども含まれる)という状況をむしろ加速したのではないだろうかという反省に晒され始めているとき、この絶対零度を融かす特効薬が存在しうるのだろうか、というほどに、我々は思想的疲労に晒されている。自然科学が観察し得た、絶対零度状況におけるその絶対性。すべてのものが動きを止めてしまうという、その絶対性が、まさかこれほどまでに人文的世界にも容易く通用しているのかもしれないということへの恐怖は、それこそがまさに人文学手法である「言葉」では表現が難しいほどだ。

 では、そうした停止・固着状況を融解する熱源は一体何なのか。それさえわかれば、停滞を一気に溶かしてしまうことが出来るのかといったら、決してそうではないとおもうけれども、すくなくとも融雪剤くらいの漸次的な効果を発揮しうるものとして、いまは融和剤を探さなくてはならない。ひとつには、それは「反モダン」としての社会主義的なギルド志向であるかもしれないし、または、文化相対主義の飽和点としてのアマチュアリズムへの反省が促す専門主義の復権かもしれない。またはもっと拙速な論者からすれば、全体主義への回帰かもしれないし、ときにはまたアナーキズムの実践であるかもしれない。しかしながら、今我々の社会は、絶対零度として、それらの揺籃をも無化させるほど、ポストポストモダンとして(過度の流動の結果として)硬直しているかもしれないということへの視点も失ってはならないだろう…。

 さてここに至って、あえて結論めいたことを書き綴るならば、このような状況において、その絶対零度の融解をなしうるのは、ここ最近でも言われてきたようなコミュニティー主義ではないのかもしれないという臆測が頭をよぎってやまないのだ。コミュニティーとは、主体的存在が3名以上寄り集まってそこに形成される、関係性の総体のことであるが、この最低限のコミュニティーですら、今文化相対主義の尺度においては、なにがしかの絶対的規範を広く生成することは本質的には困難である。その困難を軟化させるために、国際的な契約や条例という概念が発達してきたのであろうことに鑑みれば、ひとたびそこに不和が起こるならかえって逆説的に引き続いて引き起こされるのは、ドラスティックな戦争状態か、またはその反射として各々が自己に沈潜しコミュニケーションを放棄する閉鎖主義かの択一となってしまう。これはそのまま社会運営の困難とジレンマを表す寓話でもある。そして、こうした3人以上の主体が登場する場合の、コミュニティー重視的価値を敷衍することで、かえってその3人以下の、2人の当事者間の関係性、ないしは1人それ自身の個人主義的最小世界をも崩壊させうるというのは、我々がすでに学校や職場などで日常的に経験しているような卑近な悲劇でもある。では、こうした状況で、コミュニタリアンをも満足させ、かつ絶対零度的な無動の個人主義に陥ることを回避するためには一体何が必要なのだろうか。おそらくこの地平においては、これまで例証を挙げた3人以上のコミュニティーを保証し温存しようとする爾来の社会意識を越えたものが必要なのではないだろうかと考える。単純な議論を展開するなら、個人が社会における一個のアトラクタとしての苦悩に価値を還元しようとするような、要は結局のこと、ここに存在し、ここに思考する主体としての起源に回帰し、個的に生を全うしようとする実存主義を展開するほかないように思われるのだが、既にそういった哲学の非現実性(どのようにしても、結局現象面おいては人は本質的な意味での実存的生を選択できるほど強靭に孤独に飼いならされてもいないし、アカデミックにそれを信望しつづけるほど酔狂でもない)に鑑みるならば、ここに至って我々は、最小単位的コミュニケーション、すなわち個対個、一人称と二人称の、「二人」という次元を反省的に見つめることしかできないのではないのではないだろうか。これまでデモクラティックな思想を展開してきた、コミュニティーへの献身という題目が、実はこれまで述べてきたような個人の停滞と壊疽を逆説的に引き起こしてしまうのだとすれば、また、絶対的な単位としての「個」への回帰が困難なのだとすれば、実は、残された道としては、一対一のコミュニケーションについて、その理解を、時に反動的な勇気をもって深めていく以外に方策はないのではないだろうか。デモクラティックな発想や方法が、時にコミュニティー内部で、少数者に苦痛と辛苦をなめさせるのではあれば、我々はむしろ、三人以前の、一対一の、二人のコミュニケーションにおいて、様々な軋轢や問題が生起するしまうその瞬間に、反省的に思いを至らせるほかないのではないだろうか。

 愛する人を傷つけてしまう、愛する故に傷つけてしまうとき、僕とあなたの関係には一体何が起こっているのだろうか。信頼と不信がないまぜになって、結果あなたを信じられないとき、わたしの心の中では一体何が起こっているのだろうか。あなたがわたしを裏切るその時、一体何が起こっているのだろうか。一対一で起こるこうした齟齬(もっと一般的なことばで言えばすれ違い)ということが、実は社会全体に起こりうる齟齬や不協の基点として、われわれが想像する以上に重要な意味を持っているかもしれないということに、我々はそろそろ気付くべきなのかもしれない。そこには、個人と社会とが結節する臨界点というべきものが見えてしかるべきなのだ。一見社会的で人当たりのいい人が、一対一の関係においてはあまりに残酷な振る舞いをするといったことなどは、誰しもが日常的に経験しうるほどに、ありふれた事実であるのにもかかわらず、それについて実践的且つ社会的な考察が加えられていることを、これまで寡聞にして知らない。なぜなのか。または、一対一でのコミュニケーションの円滑こそが、実はデモクラティックな社会が想定する「安定的な」社会を用意するということ、そのことは考えて見れれば実に自明のことであるのに、とたん現実生活における一対一の問題になると、二人同士の個的な問題系として社会が無関心を装う。これもまたなぜなのか。われわれは、これまでデモクラティックな甘言のもとに捨て置かれてきた、こうした「一対一」の、一人称と二人称のみの間で交わされるコミュニケーションの、社会全体の基盤をなすファクターとしての重要性を深く再考するべき状況に置かれていると言っていいだろう。三人以上の社会が、二人だけの空間を、極めて特権的に扱ってきた歴史、例えばあの「プライバシー」といったタームが、ときに本来の意味を越権して、一対一の関係性にあるその社会的責任をネグレクトする形で、その自己都合な秘戯性だけを珍重した結果、われわれは本質的にこの社会を成り立たせているコミュニティーというものが、生来的には一対一の関係性やまたそこに存在すべきお互いへの信頼というものにより担保されてるという事実の価値を遙かに後退させてしまったのだろう。われわれの社会に今もたらされつある、この不気味な絶対零度的停止は、実はそういった「一対一」への軽視によって、宿命的に召喚された悲劇なのではないだろうか。

 

この論考は続きます。

曲がり道

 もう一昨年前のことになるけれども、わたしがそれまで8年を越えて住み親しんだ上板橋から、練馬区の関町へ越してきた。以来、職場がそう遠くない方面にあることを理由に、移動をする手段としては自転車を選択したのだった。わりと値の張る(自慢の)ロードバイク式の自転車を所有していた私は、当初には毎日その界隈の大通りである吉祥寺通りを南下する形で、気味よく疾走しながら吉祥寺の方面へ出ていたのだったのだが。早春の、空気に優しい暖かさが篭り始めたを頬に感じられたことは、運動不足だった自分の身体が、そのなにか優しげな空気にほだされていくようで嬉しいことだった。

 吉祥寺通りを駅方面に南下していくとき、家を出てからそのまま幾らかまっすぐ進むと、町名を「立野町」と呼ばれるあたりに差し掛かったところで、緩やかなカーブに出会う。右方面になびいていくその道筋は、自転車を駆る私にとっては毎日に出会う少しの(実にほんの些細な)スペクタクルだった。少年の時代によくしたように、自転車をすこし行くべき方向に傾ける。ハングオンしていく。この曲がり道は、自転車を巡航する速度をとくに緩めさせるでもない。頬に触る風は、むしろつつがない一本道の場合より、こういった仄かなカーブのときこそ、心地よさを運んでくる。右頬へなびいてくる風は、わたしがその時新生活を始めたのだという実感を、そっと運んでくれたのだった。

 その後、とても情けないことに、その自転車移動の生活が災いして(医者の言うとのことによると、ロードバイクというのは、常に前傾の運転姿勢を保たなくてはならないために、それを日常的に乗りこなすには極めて腰と周辺部位に悪い乗り物らしいのだ)、ヘルニア病を患ってしまった私は、渋々に主な移動を徒歩に頼る生活となった。じっさい、そのあたりから吉祥寺駅まで出るには、徒歩移動ではなかなかに骨の折れる距離であって、歩くことを決断した当初直後は、自分の身体の脆弱さを呪詛したりした。なんでこんな距離を歩かなきゃならないんだ…。

 そんなある日だったか、わたしは夜、吉祥寺駅からの関町への帰り道を歩いていた。そのころは、まだまだこのあたりの生活に新鮮で快活な興奮を覚え、夜な夜な吉祥寺周辺の居酒屋だとか、飯屋だとか、そういうものへ通い通いしていたこともあり、その日もかなり日が落ちてから深くなった時間だったかと思う。駅からゆらゆらと北上し、四軒寺交差点を越えたあたりで、「ああやっぱり歩いて帰るにはどうやっても骨の折れる家だよ…」と弱虫が出て来る。それでも、一年でもっとも優しい5月の風はその労苦をねぎらうように、さわさわと身体を撫でてくれているのだった。そしてまたあの曲がり道へ差し掛かる。自転車で行き来していたついこの間までとは違って、今度は行く先左の方面へ、ゆっくりゆっくりと緩やかに道が続いていく。真っ暗な吉祥寺通り。時折じぶんより歳の行かない若者たちが、自転車を駆りながら、上気した身体をわざと風にさらすように、おのおの世話話をしながら行く。「おい!ダイキ!ざっけんなよ!」彼らのほたえ声の残響が、黒い空にこだまする。なにがそんなにおかしいのか、あははは、と機嫌よく、歌うように笑いながら。

 わたしはといえば、まだ患いの抜けない腰を重く運びながら、その患いをむしろ快活に動くことによって忘れられるとでも思っているかのように、つとめてさくさくとしたリズムで北の方にむかって、足を移していく。曲がり道というのは、どこにその局面のピークがあるかを判断するのが難しいのだけれども、ちょうど、前あるいは後ろ、どちらを振り返っても、来た道も行く道も、どちらもがそのカーブで隠されてしまう地点というのがある。立野町の郵便局を越えた辺り、どうしてその場所にその看板を建てたのかの意図はわからないけれど、今行く道が「吉祥寺通り」であることを示してくれる「吉祥寺通り」という道看板の立っている辺り。ちょうどそのとき、それまで吹いていた風がふっと止んで、自転車で行き交う人達も、車も、そして私以外に歩きゆく人の姿も見えなくなった。もとより通行の頻繁なこの通りにして、夜の深い時間を考えても、どうにも訝しくなるくらいに、何の音も聞こえることがない。

 ふと前を見れば、カーブの行く先を霞ませる、通りの両側に佇むアパートや、商店やら、建屋の群があり、そして後ろをみても、おなじように、これまで歩いてきた道の先は、すぼんでめくりとられるように、遠く眺めゆくこともできない。まるで、わたしの視線が、その曲がり道に絡め取られてしまったように、しゅるしゅると細く綴じている。ふと、どうしたことか、時間が完全に運行をやめてしまったような。時間というものが意思をもっているのだとしたら、それまで律儀に働いてきたことに膿み疲れて、流れを運ぶことをなげやりに放棄してしまったような、そんないっときがわたしを捉えたのだった。わたしがもし、このまま歩を緩めることをしなかったとしても、もしかすると、この曲がり道から先の風景は、ずっとこのさきも開き出ることがないのかもしれないという、ささやかな不安ともつかない、よこしまなが蠱惑が心を撫でる。風は止んで、時は流れを止め、わたしはじっと佇む。前にも向かず、後ろにも向かず、その場で、その場だけを感じる。「わかったわかった。そちらがそのつもりだったら、この場で終わりにしてもらおうじゃないか」そんなことが頭に浮かぶと、妙に解き放たれたような、さっぱりした心持ちなったりして、「わー!!」叫んだりしてみる。閉ざされた曲がり道で、わたしの声が、わたしから離れて、道を囲むモルタルにぶつかり、四方からわたしに、わたしがこだまする。

 

 「あ!」と思うひまもなく、くろぐろした小さなかたまりが足元を駆けていく。そのくろぐろは、一つではなくて、時間を置いて、いくつも転がっていく。三個、四個。コロコロコロ!本当にそんな音をたてるように、でも実際には何の音もなく、転がっていく。そのくろぐろは、今私があるいてきた道から、今私が行こうとする道へむかって、一目散に転がっていく。わたしがいまこんなに難儀して、夜につかまえられてしまっているその中で、その鼠たちは、ゆうゆうと、曲がり道にとざされた風景を、駆けていく。彼らが来たのは、やはり今でも閉ざされた道のどこかから。そして彼らが行くのは、いま私が行こうとしてもその先が見えない、閉ざされた道なのだった。すばしこい鼠たちは、曲がり道をまるで自転車で行くように、駆けていく。わたしがあのロードバイクでこの道を駆けていたあのときと同じように、たぶん、この曲がり道がどこかで、いやここで、こうして誰かが閉ざされてしまっていることも知ることもなく。鼠達は、わたしがさきほど発した、「わー!」という声を聴いてくれていただろうか?おそらく聴いてはくれてはいないだろう。それが、曲がり角で歩みを止めた、わたしの声だと知ったのならら、わたしもそのくろぐろの仲間にしてほしいのだが。

 

 そんなことを思っていたら、どういうことだろう、わたしは既にその曲がり道を越えて、我が家から最寄りのコンビニである、セブンイレブンの前に立っているのだった。家に歯磨き粉をきらしていることにふと気付いたわたしは、そこでそれを買って帰った。家に着くと、都会のネズミの生態系を調べようと、ウィキペディアを開いてみて、少しだけそれを読んで、床に着いたのだった。

 

信じるということ

 一体全体、「信じる」というのはどういったことなのだろう。日常的な語彙としては、「信じる」とは、自分以外の他者がなにがしかの行動や言動を行う際に、それを観察・感受する側である人称が、彼がおこなったことについて、自らが敷衍する規範に乗っ取り、またはその規範を逸脱することなく、ことが行われることを期待する、その期待値が50%以上のことであるように思われる。しかしながら、「信じる」という特殊な精神活動が呼び起こされる時、果たしてそれを信じる側にいる人称は、信ずべき、事を行う主体としての二人称について、そのように単純な信頼関係とも呼ぶような関係性を持っているものなのだろうか。

 その二人称に対して、我々一人称が期待するような行動規範を求める時、われわれはその二人称に自己を内在化する。自己の倫理をその二人称に内在化し、「私だったらっそうする」という、極めて直裁的な規範を適用しようとする。「俺だったらこうするのに」といった、一人称を反射するような、直線的な関係に依らずとも、「一般的にはこうするはずなのに」という内在化された規範を基点として、彼(一人称)は彼女(二人称)を評価しもするし、断罪しもする。信頼と不信という二項対立を牧歌的に惹起する一般的な社会生活においては、そのような一方的力学がもっとも単純に顕在する場でもあると同時に、しかしながら非一般的(と今は言おう)な個別的関係においては、その力学系がいとも簡単に崩壊するとい事実について、自明でない者はいないだろう。

 であればその「非一般的個別的関係」とは一体何なのか。それはご承知の通り、恋愛の地平においてであろう。この論に立ち入る前の前提として「一般的関係」についていうなら、プレモダンまでに担保的に論じられてきた「善/悪」という対立的図式に言及せずにはおれない。絶対的な倫理規範としての神が、近代的な、「契約」という弁証の結果としての技術論的折衷を導き出したという点、もしくは「神」の概念が一個絶対的な規範として存在するその自明性を逆利用する形で、宗教的観念を倫理一般まで敷衍してきたというその史実、それらを参照する際、我々は「信じる」という行為の恣意性や歴史性を再認識せざるを得ない。そしてそこで暴かれた相対性こそが、現代のポストモダン状況における「自由」という思想の源泉であるとするならば、「信じる」というその精神活動やそれを培養した時代も、歴史的文脈の末端に位置し、相対化された観念として論じられるのも無理はない話でもある。しかし一方で、「反自由」の側から提出された様々な暴虐的事例(全体主義でも、アウシュビッツでも、例証に事欠かない)は、その相対的な自由の、「相対的」な部分こそを、ポストモダンの病として断罪すべきであるという歴史的事象を絶え間なく提供してきたことも、事実として動かし難い記名性を有している。そのことはあまりに痛く、苦しく、人類史に残る汚名として、早急にそそがれなければならないし、私も含めた誰しもが、そう思っている。

 しかしながら、この時点で、新たな、しかもまったく予期していなかったと同時に、どこかで少し予期していながらも、その醜さ故に誰もが論じるのを避け、しかも恥じてきた問題が生じてくる。それは、「信じる」ということへの、越権的な不信である。

 僕は、私は、今個々に生きるにおいて、実存的な不安にさらされているという、モダン以降のあまりに自明な言論状況において、それは、それを自ら逆利用するような形で現れる。ポストモダンが、林立する価値を全て肯定するようにして、とても皮肉なことに、同じような手つきでで、あの「愛」という価値すら、越権的に否定する。しかも無自覚に。

 どのように言論・思想が激化、セクト化、もしくは脱意味化しようとも、我々は、哀しいことに、この物質的世界に生き、しかも実存主義的な表現をあえて用いるなら、生かされている。生かされ、極限的なニヒリズムを抱えながら、生きていく中において、能動的な自殺は容易い。しかし自ら命を経つ時、命を絶つというその行為自体が、この悲観と実存的世界を肯定してしまうことになる。だからこそ我々は永遠にもがくべき主体として、その生命を全うするということに一応の目的を付与することを宿命付けられている。これはなにも悲観的見立てではなく、自明に引き出される結論のようなものだ。だからこそ、我々は生きなくてはならない。誰のためでもない、それは個のためであると同時に、あえて言うなれば逆説的に全体のためでもある。

 その時、そのときこそ、我々が生きるということの、もっともエッジーな、そしてもっとも辛苦にまみれた地平が見開いていくことになる。「あなたを信じることは難しい、だけれども、何かを信じていなかければ」。これまで人々が歴史を重ねてきた只中において、「信じる」ということが、この地平において、はじめて語られるべきフェイズを迎えているのだと思う。それは人によっては、またしても歴史が可逆的に巻き戻されてしまった現象の顕現としての「宗教」かもしれない。だけれども、はっきり言うなら、そういう人たちは幸せだ(とされている)。辛苦にまみれたことに、多くの人達はそこまで楽観的になることを許されていない。何故なら、信じることを既に封じられてしまったことを、既に知ってしまったからなのだ。それにおいてもなお、何かを信じていなければ、人は生きていくことは難しい。例えば、友人を、師を、そして、家族を。それが消極的な精神活動だとしても、実存の果に垣間見える、最後の、私達の指先がかろうじて触ることの出来る、凸面なのだ。

 ここまで論じてしまえば、愛を裏切り、それを裏切るつもりもないのに裏切ってしまう、あの一群の人達に対するレクイエムとしてはそれなりに意味を持ったエッセイになってしまている。しかしながら、今わたしは、手を緩めることをしたくない。この文章を省みるならば、読者が、極めて保守的な紐帯主義ともいうべきものを嗅ぎ取ってしまうことは容易であろう。何時の時代であってもすべての新たな世代は「我々がもっとも無気力だ」と思ってきた。様々な価値に晒され、上昇と下降と沈滞と、その縦軸的な場所取り(と場所取りの放棄)を自らの懊悩の培養基としてきた。それは既に、彼が薄々と感づいているように、議論としての有効性を全く失っている。その相対化の波間に自らを埋没させ、某かでも視点を確保しようとし、倫理観の浄化に身を任せるとしても、それは知らぬ間に自らが望んだものであったということを、そろそろ痛さとともに知るべきだ。彼が知るのは、愛の不毛であり、倫理の欠如だ。

 あなたは、彼は、僕は、愛を知るために最大限の努力が求められている。そのことが何なのか、果たしてそこにたどり着くことができるのか、そういう予想される途方もない徒労を、言い訳として用いるべきでない。何故なら、その言い訳によって、あなたが知らぬ間に、若しくは知りながら、あなたが一時期でも愛した誰かが、死に瀕するほどに傷つき、しかもその上に、その傷を癒やすために連鎖的に誰かを、若しくはもっと不幸なことにはあなたをまた傷つけてしまうのかもしれないのだから。

 だからこそ、我々は、あなたは、今だからこそ「信じる」という行為に身を投げ出してみるべきなのだ。いや、それはもっと言えば、他者が自らを「信じさせる」という行為へダイブするほどに、自らと彼の関係を陶冶するその勇気を持つべきなのだ。

 

 あなたは不信心の人だ。

 信じるという訓練は、もしかしたら、いまこのときにおいては、何の意味も持たない。あなたがあなたを信じてくれるかもしれない人と出会うことのできた(もう出会っていると思うよ)その時、初めて、信じるということを信じ始めていいのかもしれない。そのことに手間取ってもしかし、あなたは信じることをやめてはいけない。信じるということに、どこか怖さを抱えているときこそ、あなたは今ここに生きていることの証左を感じることが出来るのかもしれない。けれど、彼を信じることによって、あなたはそのとき、その瞬間に、おそらく彼もあなたを信じていることに気付き、救われるだろう。かつて信じようとしなかった自分も、そのときにはじめて浄化され、祝福されるだろう。信じられているということを、そのときに信じられるだろう。

 僕はあなたを信じようとして、信じることが出来ると思ったけど、哀しいことに、それをすることが出来なかった。だからこそ、あなたには、かならずそれを成し遂げて欲しい。

土の中

乾いた道 黄色のラバーの凹凸の ひび割れたその端から

裂け目がのぞく 下にはただ土がある 死んだ土

 

ダイキとユウキ 大きな建物の前で 待ち合わせて

互いの名を呼び 両手を高く上げ交えて ピシャリという音が空気を切り裂く

その後には空が残る なにも含まない空

かしわ手の音は 布に刺されるマチ針 たくさんの穴が空いている

ゴワゴワのシャツに穿たれた ボタンより大きい穴

  

滝はとうに涸れている けれど水はどこかに 膨よかに貯まっている

すこしあまくて 旨い水

たくさんの兎が駆け 一兎が行方をくらます 一兎とともに迷い出る

そこはかつて 美しさに包まれて 全てが裏返って見えた運動場だった

 

今ではもう土の中 暖かく いい匂いのする

死んだのは土じゃなく 裂け目から見える空だった

貯まっていた水は 知らない間に 土の中へ

染み出していた

 

梢を離れて

 今から2年前。29歳になったばかりの頃。街の空気もいよいよ肌寒さを孕んでいくその日、次にひとりで住むことになる街はどんな街なのだろうという茫漠とした思いを抱きながら、僕はバスに乗っていた。この街にはそれなりに長く住んでいたはずなのに、慌ただしさにかまけてゆっくりと散歩することもままならなかった自分たちの家の周辺を、今度の週末に気ままに巡ってみない?と彼女が提案したのだった。物憂げな陽光の差すバスの車内で、僕たちはほとんど話もせず、彼女は左側の窓に流れる風景を眺め、僕は反対側の窓に流れる風景を眺めていた。

「なんにもしない日なんて久々だね」と、彼女の関心を引き寄せるように、その先に指し示す何かがあるでもないのに、指先を右側の窓から見える景色に向けて、僕は言った。

「なんにもしないわけじゃないよ。お寺にお参りしたり、お土産をみたり」と、視線をバスの行く先へ移しながら彼女が言った。

「それに、こうやって一緒にバスに乗ってどこかへ行くのなんてどれくらいぶりだろう」と僕。彼女はそれには答えずに、路線図にある次のバス停の名前を、小さな声で独り言のように繰り返している。家族連れ、恋人たち、友人たち、沢山の人たちが名も知らなかったバス停から停車のたびに次々と乗り込んでくる中、僕たちはもう、そのどの間柄にも属していないということとを、確認しあっているようだった。

 窓から見える道沿いに立ち並んだマンションや家屋が、徐々に青くて広い空にとって代わられるようになってしばらくすると、その寺の名称をただその通りに冠した名前のバス停に着いた。「ヒョイッ」という掛け声とともに、実際にヒョイッと飛び降りた僕を見ながら、「子供だなー。Tは。お寺なんてすぐ飽きちゃうなー、きっと」と、軽い笑みを浮かべて彼女も降り立つ。そしてとたんに早足になって僕を追い越していく。

「どこ行こうか」

「ほら、やっぱりYもなんにも決めてないじゃん」

「なんにも決めてないけど、なにかはするの」

 彼女に追いすがりながら、しばらく行くと植物公園の看板が出ているのを見つけた。

「ねえ、ここに行ってみよう」

「ほら、することなんてすぐに見つかるじゃん」

 今や横一列に並んだ格好となった僕たちは、その公園の中へ入っていった。枝同士が覆い合い、お互いが見つめ合うように立ち並ぶ木々の間を越えると、大きな池が見えてくる。その傍らのベンチに、カーキ色のチョッキ姿の初老の男性が浅く座り、小さなスケッチブックへ、彼の目に写っているその秋の景色を、エンピツで描き込んでいた。僕は男性の少し後ろに立ち止まり、頭のなかで、そのスケッチへ彩色してみた。木々の色は淡く、池の色は濃く、花の色は・・・そう、出来るだけ明るく、ヴィヴィッドに。そんな僕の気配を察してか、カーキ色のチョッキが少しこちらに翻った。すると彼は僕に向けて腕を伸ばし、エンピツを「1」の字に立てて、片目で僕を見つめるのだった。それに気づいた彼女も、その簡易的な「測量」の仲間に入ろうと僕の傍らに立って、少し微笑んだ。

 

 公園を出ると、僕たちはその寺の境内へと続く小径へ入った。僕たちが順路を間違えてしまったのか、僕たちの他には境内へと往く人はおらず、沢山の人達が次々に向こうからやってきて、傍らを通り過ぎる。すれ違うには少々難儀するほどの道幅のその小径に沿って、いろいろな民芸品や、この地に由来のあるらしい著名な妖怪マンガのグッズが所狭しと並べられたお土産屋が立ち並ぶ。中に、焼きまんじゅうを売っているお店を見つけた彼女が、僕に訊いた。「Tも食べる?」

「おれはいいや。だってここは蕎麦が有名なんでしょ?お腹を空かせておきたいもん」

「じゃあ小さいのを一個だけ」

 しょうゆの焼けた香りのする串付きの焼きまんじゅうを右手に持った彼女は、僕の待っている道向にたどり着くまでもなく、最初のひと噛みをした。人並みをかき分け僕の前へ立った彼女は、「おいしいね」と、まるで僕もそれを一緒に食べたかのように、言った。

 それから僕たちは、逆流する人の波をかき分けし、境内の前へと出た。そこは、確かに話に聞いた通り明媚にして流麗な建屋の群と、それが臨むにはやや朴訥に過ぎるような、さっぱりした庭地の広がる空間だった。僕と彼女は、それらを細い目で眺めつつも、その足は、これまで二人でお寺を訪ねたときにしてきたのと同様、颯爽とおみくじ売り場を目指すのだった。

 とくにそれの為の売り子もいないおみくじ売り場で、子供っぽい焦燥とともに、各々セルフサービスで引き当てた紙折りを持って、僕らは微笑みあった。そのおみくじの結果をここで詳細に開陳するには僕の記憶力は薄弱なようだけど、二人で笑いあったのは覚えているから、きっと、二人ともが悪くないくじを引きあてたのだろうと思う。境内の隅にある、緑の色濃い松の木の枝に紙折をくくりつけようとしたとき、僕はうまく結び目を作ることが出来ずに少し手こずったりした。

 それからしばらくして、先程の焼きまんじゅうもやり過ごした僕は、境内が褐色に染まり始めた頃には、心地よい空腹を感じ、言った。「ねえ、いよいよお蕎麦かな」

「私もさっきのおまんじゅう、ほぼ消化完了」

 生半可な予習でこの辺りの蕎麦情報を仕入れていた僕が、評判の高いお店の場所を調べようとすると、彼女が、「私が決めていい?こういう時はファーストインプレッション」と言った。

 

 小さな水車など民芸風の調度品が入り口に据えられた小さめな蕎麦屋を彼女は見初め、僕たちは暖簾をくぐる。家の店を手伝っているのだろう、高校生くらいの若い男の子が注文を取りに来る。

「えっと。私は、普通のざるそば」

「じゃ、おれもそれで。あと瓶ビールとグラス二つ」

 しばらくして、蕎麦がやってきた。漆の盆に、竹色の丸い笊。そしその上に、普段思う「蕎麦色」よりもやや黒みを含んだ蕎麦。ほの薄い青磁色の地に藍の笹の葉模様が全体に描かれた猪口の中には、出汁の豊穣とかえしの清爽が薫るつゆ。横並びに座った僕たちは目を見合わせて、せーのっというように、啜り込んだ。鼻腔いっぱいに香りが広がったあと、微細に練り込まれた蕎麦殻の欠片が、喉をくすぐる。

「ああ、美味しいね」僕たち二人のどちらが初めにそういっただろう?恐らく、二人が同時にそう言ったのかもしれない。「うん、美味しい」「うん」「よかったね」「うん、よかった」「ありがとう」「急になんの「ありがとう」?」「美味しいことに」「そっか」

 店から出ると、外はすっかり日も落ちて、つい先程まではあんなに賑やかだった通りからもすっかり人が消えている。昼間降り立ったバス停へ戻ると、運良くすぐにバスがやってきた。往きのときとは違い、僕たちを含めても片手で数えられる乗客数しかいない車内で、僕たちはベンチ席に並んで座った。スマートフォンを眺めながら今日の復習をしている彼女はとても楽しそうだった。

「ねえ、あの近くに銭湯もあったんだって。今度来る時は、まず銭湯にいって、お蕎麦を食べて、そんでまたお寺にお参りして、とかもいいなあ」

 僕たちは、今度またここを二人で訪れることはきっと無いだろうということを知りながら、今度またここを二人で訪れるときのことを、細に入り話し合った。

 

 マンションへ帰宅し、彼女が洗面台に立ったのに合わせて、僕は一服しようとタバコの入っているズボンのポケットをまさぐった。すると、境内へ至る小径でふと手にとったパンフレットもそこへ入っているのに気づいた。その一節に、こう書いてあった。

『ここ、深大寺の歴史は約1300年前に遡ります。深紗大王を祀る当寺は、開祖・満巧上人の出生の逸話により、縁結びのご利益でも知られ、幸せを願う多くの恋人たちが訪れる地となっており・・・・・・・』

 僕はベランダに立ち、それまで安住していたそれぞれの梢から色づいた葉をさらっていく風を感じながら、タバコをポケットにしまい、その代わりに、ありきたりなやり方だと思ったけれど、ふっと白い息を吐いてみた。あの美味しかった蕎麦の味と、ありきたりだと思ったけれど、そのときの彼女の嬉しそうな顔を、きっと忘れないのだろう、と思ったら、少し涙がこぼれた。